鵜の目鷹の目ココロの目 第8回

 新年度開始に想う 志村史夫

 

 もうすぐ4月。

 日本の4月は「新年度」が始まる「気分一新の時」で何かを新しく始めるのに適した時である。日本の「4月」には桜が伴うことがなんとも素晴らしい。特に、新入生、新入社員を迎える入学式や入社式には桜がよく似合う。

 私はアメリカの大学にいた頃、大学の「新学年開始」が9月であることにどうしても違和感を覚えたのであるが、それは単に「4月」と「9月」の違いだけではなく、やはり、長年の日本人としての習慣から、「新年度開始」に桜が伴っていなかったためであろうと思う。毎年、春になり、南から北へ順次「桜前線」に乗って移動する日本列島各地の満開の桜を見るたびに、私はつくづく「やはり、桜は日本の花だなあ」と思う。

 最近はさすがにやらなくなってしまったが、私は、学生時代以来、新しい「4月」がくるたびに、ラジオ・テレビの「外国語講座」を始めたものである。いままでに「英・独・仏・露・伊・西・中・韓」の8か国語をかじった(おかげで、私の歯はボロボロになった上、日常的に必要である外国語以外は決して身につかないことを知らされた)。とにかく、私は、この世でラジオ・テレビ講座のテキストほど安いものはない、といつも感激し、ラジオ・テレビ講座で外国語を勉強しないのはもったいないと思っていた(いまも思っている)のである。

 もう10年くらい前になるが、仏教大学大学院(通信制)に入って、サンスクリット、チベット、パーリー語を勉強した時、私は、改めて、世界には本当にさまざまな言葉、文字があるものだなあと感心した。

 たしかに、世界にはさまざまな言語、文字があるのだが、私は『インデイアナ、インデイアナ』(レナード・ハント著、柴田元幸訳、原著は”Indiana, Indiana”)というきわめて詩的な小説の日本語訳書と英語原書とを読み比べて、「日本語というのはなんて素晴らしい言語なんだろう」と痛感した。

 私は、自然科学の分野、具体的には理工系書、論文や取扱い説明書などにおいては、「主語」がなくても、はっきりとした「目的語」がなくても成り立ってしまうような曖昧な日本語よりも、「主語」「述語」「目的語」が厳格で、「冠詞」が重要な意味を持つ英語の方が適していると思うが、「詩的なニュアンス」を伝える文学作品については、素人ながら、日本語が圧倒的に優れているのではないかと思う。たとえば、上に挙げた小説の英語原書と日本語訳書とを読み比べると、「ひらがな」「カタカナ」「漢字」が巧みに使い分けられる日本語の表現力と威力を痛感せざるを得ないのである。また、表音文字の羅列である英語に比べ、多くの漢字が表意文字であることも、文章を読んだ時の理解速度を速める効果があると思う。もちろん、英語を母国語とする人や英語を専門とする人には異論もあるだろうが。

 言葉は時代によって変わるものである、とはいえ、最近の「ミョーなカタカナ語混じりの日本語」、「意味がわからない略語」、奇妙なアクセントの「ラン」、「ドマ」、「カシ」などの3文字語や何にでも「チョー」をつけたり「ヤバイ」でしか表現できない「若者語」を聞くにつけ、さらに「幼児から英語教育を!」などという社会的風潮に触れるにつけ、私は余計に日本語を大切にしたいと思うのである。いうまでもないことだが、われわれ日本人にとって母国語である日本語は、社会生活はもとより、すべての勉強の基盤である。日本語をなおざりにできないのは当然のことである。

 新年度開始にあたり、一人でも多くの日本人に「日本語」を考え、「日本語」の大切さを噛みしめていただきたいと願う次第である。