鵜の目鷹の目ココロの目 第6回

大切な生徒の資質評価 志村史夫

 

 今年の入試シーズンも中盤から終盤にかかっている。もちろん、一番大変なのは受験生であるが、この時期は、家族も教師も学校もそれぞれに大変である。

 志望が藝術系のような特別の場合を除いて、一般に大学受験生は「文科系」と「理科系」とに分類される。そして、そのような「分類」が社会に出てからもついてまわり、世の中の人の多くは「理科系人間」あるいは「文科系人間」と自認するか、世間的にいずれかに入れられることになる。

 私は仕事柄、世間的には「理科系人間」に入れられるのであろうが、私自身は自分のことを特に「理科系人間」と意識したことは一度もない。おこがましく思われるのを覚悟で書くが、私は昔から「文理藝融合人間」であることを自認している。“融合”しているかどうかは別にしても、「私」という個人の中には「理科系」、「文科系」、「藝術系」それぞれの部分が混在しているのは誰にとっても同じことである。さもなければ、これだけ複雑な社会で生きていけるはずがない。

 世間でいうところの「文科系人間」、「理科系人間」をあえてステレオタイプで述べれば、前者は「数学や物理などの理科系科目(特に数学)が嫌いな人、苦手な人」、後者はそれらが「好きな(嫌いでない)人、得意な(不得意でない)人」になるのではないかと思う。そして、現実的には、高校までの学科の試験の出来・不出来(つまり「成績」)によって、そのように分類されたという人が大半なのではないだろうか。私は、このことをじつに恐ろしく思うし、このようなことで分類されてしまう生徒たちをまことに気の毒に思う。

 しかし、いままで「理科系」や「文科系」のさまざまな仕事に従事し、それらの“まとめ”としての少なからずの本を書いてきた私にいわせれば、一人の人間が「理科系」に属するか「文科系」に属するかなどというのは、本来、学校の試験の成績などで決められるものではないのである。 

 さらにいえば、学校の試験などを通して評価し得る人間の能力や資質は、極めて少しの限られたものなのである。そして、私のホンネをいえば、ITが極度に発展した現代社会において、その“少し”に大きな意味があるとは到底思えないのである。

 それなのに、日本の社会では、現実的に、学校の試験次第で、一人の人間の「優劣」や「適性」、そして「理科系」か「文科系」かのレッテルが貼られてしまいがちなのはまことに遺憾である。(しかし、実社会に出れば、そのようなレッテルは、幸か不幸か、すぐに剥がされてしまうのであるが。)

 先年、「進路」を決める(決められる)前に、中学生、高校生に是非読んで欲しいと思って書いたのが『文系?理系?−人生を豊かにするヒント−』(ちくまプリマー新書)だった。彼らには、学校の試験の成績などに惑わされることなく、ほんとうに自分が好きな道に進んで欲しいと思う。

 生徒や学生の興味や能力や資質をきちんと評価し、彼らにとって最善と思われる道を示すのが、教育者や指導者の重要な仕事だと思うが、それはまた最も難しい仕事でもある。

 目に見えるもの、形のあるもの、数値や金額で表わされるものの評価はそれほど難しくないし誰にでもできるし、パソコンのソフトに任せれば「完璧」な結果が得られるであろう。しかし、目に見えないもの、形のないもの、数値や金額で表わされないものの評価は容易ではない。表面的な形式や数値や権威などに左右されないほんものの見識と勇気が必要だからである。したがって、評価する立場にある人は、自分自身がほんとうに評価する立場の人間としてふさわしいのか、謙虚に考えてみたほうがよいだろう。安易に人を堂々と評価するような人間は、私にはどうしても高く評価できないのである。