鵜の目鷹の目ココロの目 第5回

大学入試センター試験に想う 志村史夫

 

 今年も例年通り1月17日、18日の両日、56万人が受験した大学入試センター試験(センター入試)が全国690会場で同時に一律に行われた。この試験内容が全国共通であることはもちろんであるが、その「統一」「一律」は厳格そのものである。昔、アメリカの大学にいたことがある私は「まさに日本ならではの入試!」と感嘆(正直にいえば嘆息)する。

 監督者には「取扱注意」と朱書きされた230ページを超えるマニュアル(監督要領)、20ページを超える「想定質問/回答事例集」、「地震時対策マニュアル」などが配付され、事前学習を強要される。毎年、同じことをやらされている者にとってはウンザリなのであるが、万が一、たとえ些細なことでも受験者にとって少しでも「不利」になるようなトラブルが生じれば、翌日の新聞で全国的に報道されてしまうので、各会場の責任者、監督者の「緊張」は尋常なものではない。

 試験会場では、毎試験ごとに、秒単位で合わされた電子時計を見ながら全国一律の一字一句違わぬ台詞が読み上げられる。試験において最も重視されるのが秒単位の「正規の試験時間の確保」と「試験時間中の静謐な環境の保持」である。これらが完全に満たされない場合は「再試験」という責任をとらされるので大変である。

 このような「センター入試」の是非(主として“非”)についてはここでは触れない。毎年、この試験監督に駆り出されている私の個人的な感想二点を述べるにとどめる。

 受験生は「地理歴史公民」「国語」「外国語」「数学」「理科」から必要に応じた科目を受験するのであるが、そのいずれの科目も問題量の多さに驚嘆する。試験時間は科目によって60分あるいは80分(監督者にとって、その時間は気が遠くなるほど長く感じられる)であるが、およそ半世紀前に「受験生」であったいまの私にも比較的できそうな「国語」、「英語」でも80分で最後の問題までたどりつくのが難しいほどの分量である。もちろん、これらの問題を与えられた時間内に解答するためにはじっくり“考える”時間はない。ひたすら、暗記してきたことを筆記するほかはあるまいし、“受験テクニック”も求められるだろう。まさに“記憶力”、“受験勉強”の勝負である。

 さすがに、一応「本職」の「物理」は私にも何とかなりそうであるが、教科書の中味や公式を暗記していなければできないような科目についてはお手上げである。したがって、いまの私に「センター入試」で合格点をとれる自信は皆無である。

 ITが極度に発達した現在の社会で、最も求められるのは“記憶力”やインターネットで簡単に得られるような“知識”などではなく、自分の頭で“考える力”であるのは誰もが認めることであろう。どんなに記憶力がよい人間でも、“知識量”においては掌に乗るスマホに絶対にかなわない。それでも、全国一律の“記憶力”試験が毎年繰り返されている。

 試験後、新聞で受験生の最高点や平均点を知ると、私は「日本の高校生は大したもんだなあ」と心底感心するのである。そして、日常的実体験から、一般的日本人の「知識」量は大学受験時にピークに達し、その後は急激な下降線を辿るということを確信する。

 もう一点は試験会場、試験監督が極度に神経を使う「試験時間中の静謐な環境の保持」についてである。

 もちろん、外から工事伴う騒音や自動車のクラクションが聞こえてくるようなことは論外であるが、たとえば、教室に掛けている時計はカチカチという音がうるさいということで外されるし、試験監督が教室を巡視する時の靴の音がうるさいということで「なるべく控えるように」と指導される。

 しかし、座禅道場のような特殊な場を除いて、世の中に、文字通りの「静謐」な場所というものがあるだろうか。いつも戦争やテロなどが絶えない物騒な地域ではいうまでもなく、この「平和」な日本でさえ、センター入試会場に求められる、そして実現しているような「静謐」な場所が“世の中”にあるとは私には到底思えない。一般人が社会生活を営む“世の中”にはさまざまな騒音、雑音が溢れている。

 センター入試会場のような「静謐」な場所でしか思考あるいは集中できないような人間が“世の中”で通用するとは、私にはとても思えないのである。