鵜の目鷹の目ココロの目 第4回

正月に想う 志村史夫

 

 正月というのはいいものである。私は、いろいろな意味で、新鮮な気持ちにさせられる。また、私が過去、現在、未来という「時間の流れ」を最も強く意識するのも正月である。

 いい古されたことであり、誰でも感じていることでもあろうが、トシをとるにしたがって、年々、1年が過ぎるのが速くなる。小学校時代の6年間の、あの長さが懐かしい。物理的には確かに同じ1年つまり8760時間という長さなのに、どうして、「おとな」になると時が経つのが速くなってしまうのか。アインシュタインの「相対性理論」よろしく時間も空間もじつに相対的なものである。

 しかし、よく考えてみると「トシをとるにしたがって、年々、時が経つのが速くなる」ということを科学的に説明できなくもなさそうである。つまり、例えば、10歳のこどもの1年の長さはそれまでの人生の長さの10分の1であるが、50歳のおとなの1年の長さはそれまでの人生の長さの50分の1になる。私の今年の1年の長さはいままでの人生の長さの67分の1になる。このように考えれば、「トシをとるにしたがって、年々、時が経つのが速くなる」ということにも、私は納得できる。また、時が経つ速さが加速されることを感じられるのは、自分自身の記憶や思考力というものが確実に積み重なっている証拠でもある。そのような積み重ねがなければ、1年の長さはいつでも同じに感じられるに違いない。

 また、トシをとるにしたがって、特に、ある年齢に達すると、誰でも実感させられるものは肉体の衰えであるが、これは生きものの宿命であり、また、そのような変化は自分が確かに生きものであることの証拠でもあるから、素直に粛々と受入れなければならない。 

 ところで、謙遜しないで正直にいうのであるが、私の“頭”は衰えることなく年々よくなっている、私は日々(特に50歳になった頃から)実感しているのである。確かに若い頃と比べれば、機械的な記憶力そのものは落ちているような気がしないでもないが、それは見方を変えれば、どうでもいいような事やどうでもいいような人間の事は憶えないで済むような賢い頭になっている証拠にも思える。何でもがむしゃらに憶えるようなことは、あまり賢くない頭に任せておけばよいのだ。感性が磨かれ、理解力、思考力が高まってくれば、機械的な記憶力の衰えはまったく問題にならないのである。

 若い頃にはよく理解できなかった事が、年齢を重ねるにしたがって(謙遜ではなくて本当に「馬齢」を重ねたのではだめだと思うが)理解できるようになるのはまことに楽しく、嬉しいことである。また、いろいろなことが理解できるようになるにしたがって、興味の対象も必然的に拡がるものである。

 アインシュタインと並ぶ現代物理学の立役者の一人のニールス・ボーアが「専門家と哲学者との違いは何であるか。専門家というのはいくばくかの事についてなにほどか知ることから始め、より少ない事に対象を絞ってますます多くしることを続け、どうでもいい事についてすべてを知っていることで終る人である。一方、哲学者はいくばくかの事についてなにほどかを知ることから始め、より多くの事に対象を拡げて、段々知らなくなり、すべての事について何も知らないことで終る人である。」と述べているが、私は、この言葉が大好きである。確かに、いろいろな事を知れば知るほどわからない事が増えてしまうのは事実である。

 自分の事を「哲学者」と呼ぶのはあまりにもおこがましいが、私は喜んで「哲学者」の道を歩みたいと思っている。