鵜の目鷹の目ココロの目 第45回

主語がない日本語 志村史夫

 

  一定期間生活したのはアメリカ(10年半)だけであるが、私はいままでに、仕事あるいは遊びで「先進国」「後進国」を含め30数カ国を訪問した。それぞれの国にはそれぞれの面白さや魅力があり、私にとってはそれぞれ思い出深いが、一番感動し「もう一度行ってみたいなあ」と思うのはケニヤで、最も衝撃的、魅惑的かつ興味深いのは、最近行ったインドである。

 世界で、多民族・多言語・多宗教国の代表はアメリカ、中国、(旧)ソ連であることは知っていたし、それらの国で実体験したことであるが、今回、インドへ行ってみて、インドも多民族・多言語・多宗教国であることを知らされた。13億人を超えたのではないかといわれる現在の「インド人」の主要部分を構成するのは、トルコ・イラン、アーリア、ドラヴィダ、モンゴロイドなど7民族である。言語についていえば、ヒンデイー語が公用語、英語が補助的公用語で、ほかに憲法公認の21州の言語と844の方言があるといわれる。「方言」といっても、日本の「東北弁」と「九州弁」のようなものではなく「言語」が異なるのである。

  日本のように(基本的に)一民族で、日本語という一言語でもって、日本国中どこへ行っても話が通じるという国は世界中で稀有なのである。日本で暮らす日本人は考えたことがないのが普通だが、同じ言語で話が通じる、コミュニケーションができるということはまことにありがたいし、貴重なことなのである。

  私は中学校で初めて英語を習った時から外国語に興味を持ち、いままでにラジオ、テレビ講座、大学での授業などを通じて英語を筆頭に10数か国語ほどかじった。もう10年以上前になるが、佛教大学大学院で、サンスクリット、チベット、パーリー語を勉強した時、私は、改めて、世界には本当 にさまざまな言葉、文字があるものだなあと感心した。

  私は、自然科学の分野、具体的には理工系書、論文や取扱い説明書などにおいては、「主語」がなくても、はっきりとした「目的語」がなくても成り立ってしまうような曖昧な日本語よりも、「主語」「述語」「目的語」が厳格で、「冠詞」が重要な意味を持つ英語の方が適していると思うが、「詩的なニュアンス」を伝える文学作品や日常生活においても微妙な感情を表現する上では、漢字、ひらがな、カタカナを持つ日本語が圧倒的に優れているのではないかと思う。

  この「主語」について、先般、仕事で行った岩国からの帰路、広島の「広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)」に立ち寄り、以前から不愉快に思っている「安らかに眠ってください 過ちは 繰返しませぬから」という碑文と“再会”した。

この碑文には「主語」がない。まさに「日本語」である。

 主語がないのであるから「過ち」を犯したのは誰なのかがはっきりしないのである。

 私は、愚かな人類だけが犯す愚かな戦争において、人を殺しあうのは仕方がないと諦めざるを得ず、「戦争」という「過ち」を犯した「主語」は関係国の人間全員であろう。しかし、こと「原爆」に関していえば、アメリカが実験を兼ねた2種の原爆を使用したことは絶対に許されるべきではない。

 したがって、「原爆死没者慰霊碑」に刻まれる碑文の「過ち」を犯したのは、明らかにアメリカであろうと思う。しかし、碑文には「主語」がなく、その碑文が「広島平和都市記念碑」に刻まれたものであれば、この碑文を読んだ多くの日本人は、「過ち」を犯したのは日本人であると思う(あるいは感じる)のではないだろうか。自虐的日本人であればなおさらである。

  その碑文の下には英語ほか多言語訳の銘があるが、この主語なき日本語の英訳は“ LET ALL THE SOULS HERE REST IN PEACE FOR WE SHALL NOT REPEAT THE EVIL”である。命令文以外には主語を必要とする英語だから“WE“という主語がきちんと入っている。

しかし、依然として“WE“が誰を指すのか、はっきりしない。

 このような、主語をはっきりさせない碑文を考えたのは誰なのか。これもはっきりしない。