鵜の目鷹の目ココロの目 第3回

また起こるのか大学の「秋入学」論議 志村史夫

 

 東京大学の次期総長が決まり、新総長は来年4月から6年間、さまざまな「大学改革」に取り組むらしい。明治時代から現在まで一貫して、日本の大学は東大が「絶対的中心」なので、全国の大学は東大の「改革」に無関心ではいられないだろう。

 次期総長が掲げている「課題」、「改革」の一つが「秋入学」である。

 じつは、現在の濱田総長が「東大は秋入学を検討する」と発表したのは2年前である。以来、大学の「秋入学」をめぐる論議が続いているようであるが、現時点では東大学内や他大学との足並みが揃わず見送られている。

 秋入学の最大の狙いは「国境を超えて優秀な留学生や研究者などの人材の交流を促し、大学の国際化を加速させる」ということにあるらしい。2012年3月はじめ、濱田総長は古川国家戦略担当大臣と会談し「秋入学が実現できなければ、東大だけでなく日本自体もだめになるという危機感を持っている」と述べたそうである。

 たしかに、私自身の経験からいっても、たとえばアメリカの大学と比べ、日本の大学が「国際的交流」、「国際化」に甚だしく欠けていることは明白である。しかし、その主な理由が「春入学」にあることは断じてないだろう。非「グローバル」的な日本の文化、伝統、特に“致命的”に思える日本語など「大学」以前のさまざまな問題が大きな壁になっているのである。

 ノースカロライナ州立大学時代の私の研究室(半導体材料)の助手の二人はポーランド人だったし、大学院博士課程の院生4人のうち、アメリカ人は1人だけであとの2人は中国からの、1人は韓国からの留学生だった。

 私は日本の「隣国」の中国や韓国から私の研究室にやって来た3人の留学生に「なぜ日本ではなくアメリカに来たのか」を聞いたことがある。たとえ私が日本人の教授であったにしても、私の質問は彼らにとってはまったくの的外れだったのである。彼らの頭の中には最初から「日本に留学する」というような選択肢はなかったらしい。もちろん、その理由の中に「春入学」などということは微塵もない。

 日本の多くの学生が「大学名」で大学を選ぶのとは異なり、特に大学院の場合、世界的には留学先を「指導教授」で選ぶというのが普通なので、彼らがアメリカに来た理由の第一は、彼らが勉強し、博士号を取りたかった研究室が「私」の研究室であり、その「私」がアメリカの大学にいたことである。それを後押しする根本的な理由は、前述のように、日本の非「グローバル」的な文化、伝統、社会、特に言葉など「大学」以前のさまざまな問題が、日本を留学先の対象外としていたのである。さらに、グローバルな「評価」の点において、“ハク”になる「アメリカ留学体験」と“ハク”にならない「日本留学体験」では比較の対象にならないのである。私が在籍した大学には、理系、文系を問わず、アジア諸国からの留学生が少なくなかったが、彼らがアメリカに来た理由に大差はない。蛇足ながら、私自身がはるか昔、永住のつもりで渡米した時に思った「閉鎖的な日本」と「開放的なアメリカ」の違いは決して小さくない。いずれにせよ、このような事情は、アメリカで留学生活を送っているアジア諸国出身の学生にアンケート調査すればすぐに明らかになることだ。

 先ほども少し触れたことであるが、博士課程の学生にとっては留学先の研究指導教授の実績と名声が決定的に重要であるから、「春入学」、「秋入学」に関係なく、実績と名声を持つ教授の下には留学生が集まるのであり、現に日本の大学においても、そのような例が少なくないことを私は具体的に知っている。

 いま、ここで私が述べているアメリカの大学の“留学生事情”はもう20年以上も前のことであり、私が実際に接した留学生の数にも限りがある。しかし、基本的な事情はいまでも変わっていないだろう。

 翻って考えてみるに、本稿の冒頭で引用した「秋入学」の「最大のねらい」が本当に意味を持つ大学が日本にどれだけあるのだろうか。「春入学」が致命的だと判断する大学は「秋入学」を実施すればよい。日本の伝統や社会機構のことを考えれば、当然、「秋入学」にはさまざまなデメリットが考えられるが、それらのデメリットを凌駕するほどのメリットを持つと確信できる大学がどれだけあるのか、私には甚だ疑問である。

 それにしても「秋入学が実現できなければ、東大だけでなく日本自体もだめになるという危機感を持っている」とは大仰である。濱田総長は「国境を超えて優秀な留学生や研究者などの人材の交流や大学の国際化ができない」のは「春入学」のせいで、「秋入学」を実現することで「日本自体もだめになるという危機感」を拭えるとでも本気で思っているのだろうか。私には甚だ不可解である。