鵜の目鷹の目ココロの目 第38回

 お仕置き 志村史夫

 

 先月、長野県岡谷市のある寺院の「早朝公開講座」で「おかげさま-物理学からみた佛教の教え-」という講演を済ませ、帰路、特急電車の中でのことである。

 私の座席の後から、おばあさんと小学生のお孫さんと思しき二組のペアの話が聞こえてきた。

 一人のおばあさんが「~ちゃん、北海道の山の中で両親に置き去りにされた、あの子、一人で、6日間もかかって無事に脱出して偉かったわねえ。~ちゃんだったら大丈夫だったかなあ」と話すのに、もう一人のおばあさんが「そうねえ、あの子、大したもんだわ。それにしても、あの両親、なんてひどいことをするんでしょうね」と相槌を打った。

 私は、すぐに、北海道の7歳の男児が「お仕置き」として山中に取り残され、その後、行方不明になってしまい、6日間の大捜索の末に、自衛隊の施設で無事に発見された、という「事件」のことを話しているのだとすぐにわかった。常識的には命が危ぶまれたが、男児が無事に救出されたことに、誰もが安堵した。私も、その一人である。

 しかし、私は「あの子、偉かったわねえ」ということだけの「結論」に大いなる違和感を覚えたのである。

 もちろん、私は、この「事件」の内容をマスコミ報道を通してだけでしか知らないし、「あの子」の日々の実態、両親との関係、両親の見識などなどを知る由もないので、以下に述べることを、あくまでも「一般論」として読んでいただきたい。

 両親が「あの子」をなぜ山中に置き去りにしたのか、その理由が、「事件」直後から完全に消えてしまい、マスコミ報道の中心は大捜査の進展具合と「ひどいことをした両親」に集中したように思う。

そもそも「あの子」は人や車に石を投げる癖があって、それを親がいくらやめさせようと思ってもやめなかったので、親から「山中に置き去りにされる」という「お仕置き」を受けたのである。子どもというものは、腹を立てるといろいろな物を投げつけるものだとは思うが、「人や車に石を投げる癖」というのは尋常ではなく、人が大怪我をし、車が破壊される可能性もあり、とても看過できることではない。私は、このような子どもに対し、「お仕置き」をするというのは、現代では稀になってしまったまともな親だと思う。

 北海道で起こった「置き去り事件」はたまたま想定外に、「あの子」が山中で行方不明になってしまい、生死が心配されるような事態になってしまったことが、私が思う親にとっては不幸なことだったのである。この結果、圧倒的世論は「あの子」に同情的であり、「あの両親」に批判的となってしまった。

 偏見かもしれないが、私が公共の場で目にするのは「自分の子どもに甘い親」ばかりである。例えば、新幹線の中で走り回る子どもを「走るのをやめなさい」と注意しようものなら、「~ちゃん、おじさんに叱られるからやめましょうね」という声が聞こえてくる始末である。私は、そのような親に「おじさんに叱られるからではないでしょう」といいたくもなるが、いっても無駄だと思うから

 私は小さい頃、かなりの「悪ガキ」だったから、母や祖母に「お仕置き」を受けたことが何度もある。その「お仕置き」は、夜、近くにあった染井墓地に置き去りにされたり、押入れに閉じ込められたりする程度で、生命の危険を感じたことなどはなかったが、それでも、かなり怖かった。怖い目をしたくなかったから、「もう悪いことはやめよう」と思ったものである(悪ガキは何度も同じようなことを繰り返すのであるが)。

 私は、北海道の山中に「お仕置き」のために子どもを置き去りにした親は、虐待どころか、最近の「若い親」には珍しく、教育、しつけに熱心な親だと思っていた。

 それなのに、6日後、無事であった子どもに再会した時、この父親が真っ先に「ごめんな」と「あの子」に謝ったという報道を聞き、私はいささかがっかりさせられたのは事実である。

 今回の「お仕置き」によって、「あの子」の「人や車に石を投げる癖」はなおるのだろうか。 

 父親が「ごめんな」と謝ってしまったのだから、「あの子」の悪い癖はなおらないのではないかと危惧する。                         

 

 私は「あの子も、多くのみなさんに多大の御迷惑をおかけしたことを心から反省したようです。おかげさまで、あの子の悪い癖も、あの時からきれいになおりました」という両親の言葉を聞きたいものだと思う。