鵜の目鷹の目ココロの目 第32回

 高度経済成長と“癒し” 志村史夫

 

 今年も「新年度」が始まる。

 4月は進学、進級とともに転勤の月、心機一転の月でもある。

 日本の代表的ハイテク企業の一社に勤める昔の教え子から、インドのバンガロールへの転勤の知らせがあった。いままで、カリフォルニア・シリコンヴァレーへの短期転勤は2度ほどあったが、今度はインドへの長期・5年の転勤だそうである。近年、ハイテクの分野で躍進著しく、高度経済成長を続け、世界の注目を集めている国がインドで、南部の「ハイテク都市」として有名なのがバンガロールである。

最近、インドで空前の「癒しブーム」が起こっているそうである。豊かな消費生活を享受できる国民が確実に増えている一方で、心のよりどころ、癒しを求めてさまよう人の数も確実に増えているというのだ。そのような社会情勢を反映してか、インドの郊外にある巨大な「精神修養施設」は、経済の急成長の陰で、心の悩みを抱える人たちの「癒しの場」として爆発的人気を呼んでいるらしい。

 このような話を聞くと、私が思い出すのは、西洋人の中米遺跡探検隊に強力(ごうりき)として雇われインデイオたちが、急に、先へ進むことを拒否して、黙って地面に座り込んだまま、どうしても荷物を担ごうとしなかった、という話である。二日後、突然一斉に立ち上がり、また黙々と歩き始めたインデイオは、「早く歩きすぎた。だから、われわれの魂が追いつくまで、待たなければならなかった」と語った。また、私は、古代ギリシャの医聖・ヒポクラテスの「自然から遠ざかるほど人は病気に近づく」という言葉も思い出す。

 つまり、「高度経済成長」というような巨大な「動力」によって「不自然な速さ」で走らされ続けているような人間はみんな、「魂」を遠く彼方に置き去りにしてしまった、相当の「病身」であるに違いない。そのような彼らが“癒し”を求めるのは当然といえば当然であろう。

 日本で「高度経済成長」はすでに昔の話になっているから、日本人の大半は、「魂」を遠く彼方に置き去りにしてしまったことなど、もう意識することもないかもしれない。

 先週、日本橋・三越で行なわれた「異国の鳥 日本の鳥」と題する「内藤五琅 日本画展」を観た。内藤画伯は、私の高校時代からの友人で、日本美術院特待として活躍しているのであるが、彼が半世紀近く描き続けているのは、一貫して“鳥”である。彼が描く鳥はあくまでも自然の中にいる鳥であるから、彼はさまざまな“現地”へスケッチに出かける。今回出展された25作品のうち9点がマレーシアでスケッチされたものだった。彼自身の言葉を借りれば「昨年、南洋の取材の機会を得て、南の鳥達のスケッチが出来ました。私なりの南国の鳥の作品を制作いたし、日本の鳥の作品と並べてみたいと思いました」という展覧会だった。確かに、南国の鳥と日本の鳥の羽の色も、彼らの背景の雰囲気も異なるのであるが、鳥たちの表情はどれも同じようにかわいいし、同じように凛々しい。

 短い時間ではあったが、私は内藤画伯が描く鳥たちに魅せられ、ほのぼのとした気持ちにさせられた。そして、私はいまも、彼らを思い出しては、そのような気持ちを反芻している。このような気持ちになれることが、まさに“癒された状態”というのではないだろうか。

 

 私は、インドばかりでなく、日本を含むすべての国の「高度経済成長」に疲れた人たちに、「精神修養施設」に頼らずとも、このような“癒し”もあることを伝えたい。