鵜の目鷹の目ココロの目 第2回

「英語」以前に教えるべきことは山ほどある 志村史夫

 

 またまた小学校からの「英語教育」が話題になっている。私が「またまた」と書くのは、この種の議論が昔から何度も繰り返し行なわれているからである。その必要性を説く論理はいつも「グローバル化の時代、国際理解を深めるために、英語能力を幼時から高めなければならない」ということである。

 もちろん、国際交流言語である英語ができれば「国際理解」の“助け”にはなるかもしれない。しかし、英語に限らずすべての言語はコミュニケーションのための「道具」であることを忘れてはいけない。例えば、大工道具だけ揃えても家が建たないように、英語という道具(よしんば、それが立派なものであったとしても)だけ持てば国際的なコミュニケーションができると思ったら大間違いである。

 口で「国際理解」というのは簡単であるが、実際は決して生易しいものではない。多種多様な文化や歴史を持った民族が集まり、“人種のるつぼ”いわれるアメリカで十年余生活した私はそのことを実感するし、ほぼ単一民族といってもよい島国育ちの日本人に、本当に国際理解ができるものだろうかと疑わざるを得ないのである。

 アメリカの州立大学で教授をしていた頃、私は各国からの留学生が集まった「インターナショナル・フェステイバル」で、自分の母国のことを何も話せない日本人留学生の惨澹たるありさまを何度も見ている。それは決して「英語力」の問題ではないのである。彼らは日本のことを何も知らないのである。

 いずれにせよ、「国際理解」というならば、「英語」以前に、現在の日本人がやらなければならないことは山ほどある。その“山”の中で第一に学ばなければならないのは、まともな人間になるための道徳であろう。そして、世界にはさまざま人々がいることを知り、世界のさまざまな価値観を理解し、認めること(迎合することではない)である。特に幼時教育という観点でいうならば、すばらしい自然や芸術や物事に素直に感動できる感性や他人、他国、他国民を思いやれる気持ちを育てることが何よりも大切である。そして、母国たる日本の歴史や文化を学ぶことであり、「英語」以前に母国語である日本語能力をしっかりと身につけることである。

 道具としての英語力は、どうしてもという必要性に迫られれば身につけられることを、私は私自身の経験からも、国際会議で立派に活躍している日本人研究者をたくさん見ていても確信する。私もそうであるが、私が知る限り彼らも幼時から英語を学んでいるわけではない。国際舞台で仕事をする必要上、あるいは研究者として国際舞台に出ていく必要性に迫られて英語力を身につけたのである。もちろん、国際舞台で活躍するために求められるのは、道具である英語以前に、人間としての中味である。

 また、実際に国際的コミュニケーションの場で使える英語力は、決して学校の“授業”で身につけられるようなものでもないのだ。だから、いずれにせよ、「学校英語」関係者はそれほど真剣になる必要はない。