鵜の目鷹の目ココロの目 第26回

 「師走に「トシ」と「アシ」を考える 志村史夫

 

 

 日本の伝統文化などという小難しいことをいわずに、“プロ格闘スポーツ“の一種と割り切ってしまえば、相撲部屋にとっても相撲協会にとっても、外国人力士は「経済効率」がよいようだ。いっそのこと柔道が“JUDO“になったように、相撲も“SUMO”あるいは“S-1“に変えたほうがすっきりする。しかし、相撲界がドーピングや賭けや八百長のような”グローバルな汚染”に巻き込まれることを覚悟しておいた方がよい。 今年も残すところわずかとなった。

 年末になると、いつも「今年もあっという間に終わってしまったなあ。1年が経つのが速いなあ。」と思う。

 生物である限り、トシを重ねるにしたがって、肉体的に衰えていくのは仕方ないが、それに反比例して、若い頃にはよく理解できなかったことが理解できるようになるのはまことに楽しく、嬉しいことである。また、いろいろなことが理解できるようになるにしたがって、興味の対象が拡がっていくことも楽しい。つまり、もともと、ヒト(もちろんヒトによるだろうが)の脳味噌というものは肉体的衰えとは単純に同調することなく、トシを重ねるにしたがってシンカするようにできているのではないだろうか。

 じっさい、ヒトとほかの生きものを比べた場合、ヒトの大きな特徴の一つは、“発達(大型化)した大脳”そのものよりも、大脳を発達させる“新脳化現象”にあるらしい。

 いずれにせよ、われわれ人類は、ほかの生きものとちょっと違った(それは、必ずしも「高度な」という意味ではない)「頭」を持っており、本来的に、考える楽しみを与えられているのである。フランスの大天才・パスカルの「人間は考えるアシ(葦)である」という言葉は有名である。

ところで、私は長らく、この「人間は考えるアシである」の“アシ”を「か弱きもの」と思い、“考える人間”を「青白きインテリ」のように考えていた。つまり、私は、パスカルの言葉を「人間は水辺に生えるアシのように、引っ張ればすぐに抜けてしまうし、風にもすぐに倒されてしまうようなか弱いものではあるが、考えることができる。この考えることによって、人間は強くなれるのである。」というような意味にとっていたのである。実際、この言葉の説明として『広辞苑』にも「人間はアシにたとえられるような弱いものではあるが……」と書かれている。

ところが、私は『ソクラテスの最後の晩餐』(塚田孝雄、筑摩書房)という本に大いに啓蒙された。

 地中海世界には竹や篠竹がなく、アシがその代りを務めていたそうである。弓矢の矢も、筆も、竪笛などもみなアシで作られていた。そういえば、古代メソポタミヤ文明に見られる楔形文字は粘土板が軟らかいうちに、アシの茎を尖らせた尖筆で書かれたのであった。実際、西洋のアシは、私の先入観にあるような“か弱いもの”ではなく、篠竹のように堅くて強いものなのであろう。つまり、“パスカルのアシ”は決して「青白きインテリ」ではなかったのである。人間は、強靱な、思索を行う存在なのである。

 ITの発達によって、人間の「考える」力が加速度的に衰えているのは確かであろう。

 私は、いつまでも、考える“パスカルのアシ”であり続けたいと思っている。