鵜の目鷹の目ココロの目 第24回

 愚策なり「文系軽視」「教養軽視」 志村史夫

 

  国立大学に属していない私は、うかつにも知らなかったのであるが、今年の6月、文部科学省が「人文社会科学系学部などの廃止や組織見直し」を国立大学に求めたらしい。文科省の表面的説明はともかく、その「求め」の真意が「文系軽視」であることは明らかである。

 じつは、日本の大学において「文系軽視」に先立つ「教養軽視」が強行されてからすでに久しいのである。いまここで、昔の「旧制高校」を持ち出すつもりはないが、私が学んだかつての「新制大学」でも「教養課程」は重視されていたし、大学の大学たるところは専門学校とは異なる「教養教育」にあったはずである。しかし、かつて、知性の源泉であった大学が「大衆化」に伴ない、教養課程をないがしろにした「専門学校化」が急速に進んでいるのだ。

 なぜか。

 その理由は明らかである。

 近年、日本では「経済性」、「効率」を最重視する風潮が強く、その結果、恐ろしいことに、日本の将来を担うべき「産学官」のリーダーであるべき人たちの「目先の利益」のみを追求する姿勢を助長している。そのような風潮は必然的に、大学でも役に立つ“実学”のみが重視されることになる。「役に立つ“実学”のみが重視される」のであれば、当然のことながら、軽視されるのは「文系」にとどまらない。「理系」でも「目先の利益」につながらない分野は軽視されることになる。「人はパンのみにて生くる者に非ず」であるが。

 「目先の利益」を考えるのであれば、教養など不要なばかりでなく、邪魔ですらあるだろう。かのアインシュタインは「事実を知りたいというのであれば、人は大学にいく必要なない。事実は本から得られる。大学での一般教養課程の価値は、考えることを学ばせることである。それは教科書からは学べないものである。」といっている。とりわけ、ITが進んだ現在、“事実”を「効率」よく知る手段はいくらでもある。

 もちろん、私は「すべての日本人に教養を!」などというつもりはない。

外国で、それ相当の会合やパーテイなどに出たことがある人なら、誰でもわかることであるが、自分の専門のことしか話せない、専門外の話は通じないような人、つまり「教養がない」人は、まともに相手にされないのである。政治の舞台ではいうまでもなく、どんな分野であれ、世界に通用する、教養ある日本人を育てることは、日本の将来を考える上で極めて重要である。「グローバルな人材」なる言葉が盛んに聞かれる昨今であるが、日本が必要とする「グローバルな人材」の基本は日本と外国にニホンの足をおろして活躍できるような教養と活力をもっていることである。大学が担うべき重要な任務の一つは、「産学官」のリーダーたるべき、そのような人材を養成することであろう。

 私が、このようなことをいくら書いたとしても、教養のない文部科学省、政府の役人には「暖簾に腕押し」、「糠に釘」であろうが。