鵜の目鷹の目ココロの目 第20回

 名月や…… 志村史夫

 

 今年の「仲秋の名月」は9月27日である。「仲秋」というのは太陰太陽暦の「8月15日」のことで、今年は9月27日が「仲秋」にあたるのである。「仲秋の名月」とはいうものの、「仲秋の月」が「満月」とは限らない。事実、今年は「仲秋の名月」の翌日が満月で、この満月は今年最も大きく見える満月である。

 日本では「月をでる」という習慣がすでに縄文時代からあったらしいし、平安時代には貴族の間で「観月の宴」が盛んになる。秋の夜空に浮かぶ満月を見れば、誰でも「美しい」と想うと思うのであるが、不思議なことに、これは世界共通の感覚ではないようだ。私はアメリカで十年余暮らしたが、「月を愛でる」というアメリカ人に会ったことがない。

 一般的な欧米人にとって、満月は人の心をかき乱し、狂わせるものらしく(そういえば、狼男が変身するのは満月の夜である)、また月の女神が死を暗示したりするから、月を眺めて楽しむという気分にはなれないようだ。“満月”という自然現象に対しても、その感じ方が民族によって異なるのは面白い。

 いずれにせよ、日本人にとって、澄み渡った秋の夜空に輝く満月はうっとりするほど美しいものである。芭蕉にも「月見する座に美しき顔もなし」という句がある。幸いなことに、夜は真っ暗になる田舎で暮している私は、一年に何度も満月を愛でることができる。

 長年、物理学の分野で仕事をしている私にすら、が宇宙空間に“浮かんでいる”ことがじつに不思議に思える。だから、私は一茶の句「名月をとってくれろと泣く子かな」の“泣く子”の気持ちがよくわかる。また、物干し竿で満月を取ろうとする落語の中の与太郎の気持ちもよくわかる。

 しかし、月はいつでも満月、名月というわけではなく、毎日姿を変えたり、出る時間が変わったりで、“気紛れもの”に思えるので、昔から人々に親しまれてはいたものの、時に恐れられ、不吉な気持ちを与えたであろう。事実、月は昔からさまざまな分野の作品の題材になってきた。俳句にも「月」が多いし、まずは『竹取物語』や『山月記』などの物語が頭に浮かぶ。いずれも、高校の「古文」、「現代文」の教科書の人気教材である(だった?)。

 昔から月と対比されるのが太陽である。太陽は自らの力で輝くことができるが、月が美しく輝けるのは太陽のおかげである。太陽がなくなれば月は輝きを失う。そのような太陽を持つ月も、そのような月を持つ太陽も幸せである。

 まだ天体としての月が解明されず、望遠鏡のような道具が発明される前は、人々が見たり知ったりする月は肉眼を通してのものだった。日本人は誰でも同じだと思うが、“餅をついているウサギ”にしか見えない満月の“影”が、カニや妖怪などさまざまなものに見える外国人は少なくない。

 ところが近年、月が望遠鏡のほかにさまざまな技術を使ってされるようになると、月にはウサギもカニも妖怪もおらず、“影”はクレーターや月面の凹凸であることが明らかにされてしまった。

 科学と技術は、時には無惨にも「えくぼ」も「あばた」に見せてしまうのである。われわれにとって、たとえほんとうは「あばた」であっても「えくぼ」に見ている方が幸せなのに、である。

 ところで、名月はわれわれ人間が観るからのか、それとは無関係にのか、詩人的物理学者のアインシュタインと物理学者的詩人のタゴールとの間に「実在」についての興味深い議論があるのだが、残念ながら紙幅が尽きた。