鵜の目鷹の目ココロの目 第18回

 肝心なことは目に見えない 志村史夫

 

 カンカン照りの日が好きな私は、暑いさなか、茶畑が続く丘陵や用水路の土手などを犬と一緒によく散歩する。

 私が住んでいる辺りにはまだヘビやカエルのほかにセミやチョウなどさまざまな昆虫がたくさんいる。夏の日にこのような虫たちを見ると、小学生の頃、夏休みの宿題に出された昆虫採集のことが懐かしく思い出される。

 チョウやセミなどの昆虫を見るたびに不思議に思ったのは、人間の目にはまったく同じようにしか見えないのに、彼ら同士はお互いにどうやってきちんと見分けをつけているのだろうということだった。

 カブトムシなどでは明瞭であるが、チョウやセミなど、オスとメスの見分けがつかないものが少なくない。私は、常識的に、オスとメスの見分けがつかなくては日常生活の上で困るのではないか、というような余計な心配をしてしまうのである。

 しかし、私の心配は無用のことであった。

 人間の目には、いわゆる“虹の七色”の可視光しか見えず、その可視光から外れた赤外光や紫外光を見ることができない。ところが、最近は、赤外光や紫外光を可視光に変換して映し出すカメラが実用化され、人間は、本来見えない光をも見えるようになっている。

 たとえば、紫外光を可視光化するカメラを使ってモンシロチョウのオスとメスを観察すると、人間の目にはまったく同じ白にしか見えない翅(はね)が、まったく違った色に見えるのである。オスの翅は紫外光を吸収し、メスの翅は逆に紫外光を反射するからである。また、たとえば、人間の目には一様に黄色にしか見えない菜の花をこのカメラで見ると、蜜がたっぷり含まれる中心部分は緑色に、蜜がない周辺部は黄色に見える。

 じつは、モンシロチョウやミツバチには人間の目には見えない紫外光が見えるのだ。だから、オスとメスの見分けは簡単だし、蜜の在り処もわかるのである。私が余計な心配をすることなどなかったのだ!

 人間はいままで、顕微鏡や望遠鏡で、人間の視力の限界を補ってきた。それらの道具はあくまでも、人間の目には見えない小さな、あるいは遠くのものの“形”を拡大し、ものの“形”を見る手助けをしたのである。しかし、いま述べた「不可視光可視光化カメラ」のような「文明の利器」は、人間の「可視」の領域を拡げたのである。

 思えば、科学と技術の発達は、いつも、人間の「可視」の領域を拡げてきた。人間の目に見えるものは「文明の利器」の発達に伴い、益々増えていくだろう。そして、このことは必然的に「目に見えるもの」「視覚」を絶対視する傾向を高めることになるだろう。

 しかし、サン・テグジュペリの『星の王子さま』に登場するキツネが「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。肝心なことは、目にみえないんだよ」といっている。能にも「ものは胸で見ろ、目で見るな」という教えがある。ロダンも「目で見ないで、叡智でみろ。」といっている。

 人間は「文明の利器」によって、人間の「可視」の世界を拡げてきたのではあるが、困ったことに「肝心なことは目に見えない」らしい。

 古代ギリシャの数々の優れた哲人、賢人の中で、私が群を抜いた天才だと思うのはデモクリトスであるが、彼は、視覚で捉えられるものは有力な情報だけに過信しがちであり、思考の妨げになる、といって、自分で自分の目を潰してしまうのである。このことについて、ローマの哲学者・キケロは「デモクリトスは眼光を失った時、むろん白と黒とを見分けることはできなかったが、たしかに善と悪、公正と不公正、美徳と恥辱、有用と無用、偉大と卑小を識別することができた」と述べている。また、キケロのやや後のセネカも「私は肉眼を信じない。私が持っているのは、もっと立派な、もっと確実な眼光であって、それによって私は真と偽を区別することができる」といっている。

 賢人たちは、そろって、肉眼の視力は思考の妨げになり、われわれの判断力は視覚に惑わされる、というのである。

 私にも、それはよくわかる。

 われわれは「見えるもの」に惑わされがちである。われわれの視力の源は、X線のように透過力がない光だから、われわれに「見える」のはあくまでも「外形」「表面」に過ぎない。われわれの視力では、ものの内部、いわんや深部を“見る”ことができない。だから、どうしても、われわれは、「外形」「表面」に囚われてしまうのだ。たとえば、人を見る時も、われわれは外面や服装や肩書(“肩書”も「服装」の一種である)などの「外形」に惑わされがちである。

 確かに、「文明の利器」によって、人間の「可視」の領域は拡げられつつある。また、われわれは、さまざまな「目」を持てるようになった。

 私は、古代の賢人たちの言葉に触れるたびに、それが本当にわれわれにとってよいことなのか、不安にならざるを得ないのである。

 また、「文明の利器」は、時には残酷にも、「えくぼ」も「あばた」に見せてしまうこともある。われわれにとっては、たとえ事実は「あばた」であっても、それを「えくぼ」に見られている方が幸せなのに、である。