鵜の目鷹の目ココロの目 第15回

 文月に思う手紙の効能 志村史夫

 

 毎月23日は、「二三(ふみ)」の語呂合わせで「ふみ(文)の日」となっている。この「ふみの日」は「手紙の楽しさ、手紙を受け取る嬉しさを通じ、文字文化を継承する一助となるように」との趣旨から、1979年に制定されたらしい。特に7月は陰暦で「文月(ふみつき、ふづき)」と呼ばれたことから特別で、毎年7月23日の「ふみの日」には、手紙を書くことを普及、啓発する運動が全国的に展開され、さまざまなイベントが行なわれている。

 陰暦の七月がなぜ「文月」と呼ばれたかについては、いくつかの説があるようだが、最も有力なのは、七月七日の「七夕」に関係する。

 昔から、七夕の日には短冊に歌や文字を書き、書道の上達を祈る行事があるが、これにちなんで七月が「文披月(ふみひらきづき、ふみひろげつき)」と呼ばれたのが転じた、という説である。

 ところで、この「ふみの日」が制定されたのは、もう40年近くも前のことであるが、趣旨が上記のようなものであることは、、「手紙を書く人」が相当少なくなっていた、ということだろう。

 その制定の年から40年近く経った現在、電子メールやなどのIT手段の著しい発達と普及によって、手紙を書く人も、切手が貼られた封筒やはがきが往来することも激減している。文字ばかりでなく、写真や図版も「添付」によって、世界中どこへでも瞬時に送ることができるITの効能は測り知れない。基本的に“IT嫌い”の私も、仕事を進める上で、電子メールに依存する度合いが大きい。特に、いまだに郵便やファックス送信に信頼がおけないロシアなどの国への通信手段としては、電子メールが唯一絶対的に思える。

 しかし、私信となると、電子メールはいささか味気ない。「手紙」の語源は文字通り「手」と「紙」であり、それらに「個性」が現われるのであるが、電子メールからは「手」も「紙」も「個性」も感じることができない。「絵文字」などを多用し「個性」を装っても、それは所詮「イミテーションの木に竹を接ぐ」ような「個性」である。寂しい。

 私自身は、いまでも、私信は万年筆による手書きで、封筒に貼る切手にもこだわりを持っているのであるが、最近は、たとえ「手紙」であってもパソコンを使って印刷されたものが圧倒的に多く、「手書き」の手紙を受け取ることは稀である。これも寂しい。

 現代の社会においては、電子メールもなどのIT手段も必要不可欠であることは否めない事実なので、その道の専門家には、せめて、使用する人の個性がにじみ出るような、各人の「手書き文字」風の印字を使えるようなものを開発していただきたい。

 普段、手で文字をあまり書かないような人は、こんどの七夕には、たくさんの短冊に「手書き」の願いを託してみたらどうだろうか。「手書き」の効能を期待できるかもしれない。