鵜の目鷹の目ココロの目 第14回

 “旬”を楽しみたい 志村史夫

 

 6月22日は二十四節気の一つ、一年中で一番昼間が長い夏至の日である。

 昨年の夏至の日、私は日本最北端の稚内・サロベツ原野にいたので、余計に昼が長く感じられた。 

 この“二十四節気”というのは、地球から見て太陽が1年で1回りする天球上の道筋を24等分して季節を示すのに用いられる語である。もともと太陰暦の日付と季節を一致させるために考案されたものだから、太陽暦に慣れた現代人にはやや違和感も否めないが、われわれ日本人は、古来、季節に繊細であり、四季折々を愛でてきたのである。この“四季折々を愛でる”ことと不可分なのが“旬のもの”であった。

 ところが、最近は、野菜や果物がハウスで作られたり、魚介が養殖されたり、南半球の国などからの輸入や冷凍食品の「お蔭」で、ほとんど一年中、季節に関係なく、食べたいものがいつでも食べられるようになった。しかし、私には、そのような“季節の喪失”は“ほんとうにおいしいものの喪失”にも思える。

 というのは、ほんとうにおいしいものはやはり“旬のもの”だと思うからである。もっとも、視点を変えてみれば、もはや“季節外れ”が少しも季節外れでなくなっているのだろう。人間の技術が“いつでも旬”を生み出しているのかも知れない。これは“不自然な旬”ではあるが、総じて季節感を失っている現代人自身、もはや“自然な旬”に対する感覚も失っているだろうから、現代人に合致した“旬”に違いない。

 もともと、われわれ日本人ばかりでなく、人類を含む、地球上のすべての生物は、本質的あるいは遺伝的に四季に繊細にできているのである。

 地球は太陽の周りを公転することは周知の事実であるが、公転軌道面に対して地球の自転軸が傾いていることが絶妙で、このような公転によって日照時間や気温に周期的変化が生じるので、地球上の生物は、これに対応する概年時計を体内に持っている。また、同時に、地球の自転によって生じる24時間周期の概日時計も体内に持っている。これらの体内時計は、生物の生存に最も基本的な時間的周期の決定に大きな役割を果たしている。つまり、地球上のすべての生物は、その発生以来、自分たちの活動・休息の周期を「自然の時間」に同調させてきたのである。「自然の時間」の特徴は、時計が機械的に刻む時間のように単調でもなければ、一定でもないことである。

 このような「自然の時間」に対して、われわれ「文明人」を支配する「文明の時間」は過去から現在、未来へと直線的に一定の速さで無表情に流れる時間であり、それは極めて正確な、一定の“単位時間”によって区切られている(拙著『人間と科学・技術』牧野出版)。

 このような「文明の時間」が地球上の生物にとって自然であるはずがない。

 しかし、現代人の大半は自然の概日時計とは無関係に動く「文明の時間」の「社会時計」に従わざるを得ないし、概年時計は文明の副産物によって大きく狂わされ始めている。われわれの肉体や精神が変調をきたすのも無理はない。

 いまにして思うと、私が小さい頃(昭和20年代)の食べ物は、冷蔵庫や冷凍庫がなかったがゆえに、インスタント食品やハウス物や冷凍食品のような「便利」な物がなかったがゆえに、いつも、母親が八百屋や魚屋や肉屋から求めた材料を使った手料理の“旬のもの”だったのである。

 やはり、私は、いつも体内時計に従って“自然な旬”、“旬のもの”を楽しみたいと思う。