鵜の目鷹の目ココロの目 第13回

 智者は水を楽しむ 志村史夫

 

 古く、6月は「水無月(みなづき)」と呼ばれたが、一般に、6月は日本の梅雨の時期であり、「水無」といわれてもピンとこない。

 もちろん、「水無月」は「水が無い月」ではなく「田に水を入れる月、水の月」の意味であり、「水月」の「無」は連体助詞の「な」の母音交替形「な」の当て字である。

 いずれにせよ、水はわれわれ生物が生命を保つ上で、最も重要、必要不可欠な物質であり、「水無し」というわけにはいかないのである。

 誰でも、水と空気が生きものにとって不可欠のものであることを知っている。しかし、水も空気もこの地球上に、特に日本には、あまりにも当たり前に存在するものなので、われわれはこの両物質にあまり大きな注意を払わなかった。

 私事ながら、私は一時期、5年間ほど水に関する研究に夢中になっていた(拙著『「水」をかじる』ちくま新書)。物質としての水は極めて単純な組成でありながら、じつに興味深く、とても研究し尽くせるものではない、というのが私の正直な実感である。

 だからこそ、近年の地球規模の環境汚染に関係するほとんどすべての物質が水に溶け込んでしまい、われわれの生活を支える生活用水の源水の汚染度が年々増しているのである。水道水はそのような源水を浄化、殺菌処理して供給されているわけであるが、源水の汚染度が増せば増すほど、殺菌のための塩素の投入量や塩素処理の回数が増すので、水道水の味はまずくなり、また塩素の副作用も無視できなくなる。

 先般、大学で学生らと雨水の性質を調べたのであるが、森林が豊富な地域と市街地で、また、高速道路に近い所では、5月の連休中と連休後で、その汚染度において歴然とした差が現われた。もちろん、私は、知識として、そのような差が見られるであろうことは知っていたのであるが、生々しいデータを目の当たりにして、あまりの歴然さに驚かされた。雨水は一種の「蒸留水」だから、本来は清浄な水である。水蒸気が上空で凝固し、水滴となって地上に落ちてくる間に、さまざまな大気汚染物質を溶かし込んでしまうのである、だから、雨水の汚染度は大気の汚染度の直接的な指標なのだ。

 また、水は哲学的な物質でもある。

 王陽明の作とも黒田如水の作ともいわれる(実際は「作者不詳」が正しいらい)「水五訓」という名言がある。

 

 一、自ら活動して他を動かしむるは水なり

 一、常に己の進路を求めて止まざるは水なり

 一、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり

 一、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり

 一、洋々として大洋を充たして発しては蒸気となり雲となり雨となり雪

 と変じ霰と化し凝しては玲瓏たる鏡となりたえるもその性を失はざる

 は水なり

 

 この「自らを潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり」のとおりに、水は溶解能力が極めて高い物質で、固体、液体、気体を問わず、ほとんどの物質は水によく溶ける。水はきれいなものも汚いものも、みな溶かし込み、きれいに洗い流してしまうのである。なんとかっこいいのだろう。

 さらに、『老子』が述べる「上善は水の如し。水はよく万物を利して争わず。衆人の悪(にく)むところに居る。故に道に幾(ちか)し。」「天下に水よりも柔弱なるはなし。しかも堅強なる者を攻むるに、これによく勝るものなし。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざるはなきも、よく行なうことなし。」などを読むと、私は「水」の姿にうっとりとしてしまう。

 私は、物質としての水に畏敬の念をいだき、哲学的な水に惚れている。

 そういえば、『論語』に「智者は水を楽しむ」という言葉があった。

 私が智者かどうかは自信がないが、水に楽しませてもらっているのは事実である。

 これからしばらく鬱陶しい梅雨が続くが、智者よろしく、水を楽しもうではないか。