鵜の目鷹の目ココロの目 第12回

 文明砂漠 志村史夫

 

 新緑を背景に色さまざまな花が咲き乱れているいまは、一年中で最も気持ちのよい季節である。私は、樹木の基調色が緑であることに心から感謝している。もしも、オレンジ色やピンク色だったらどうか。ぞっとする。

 とても清々しい季節なのではあるが、一方、いつもこの時期になると、私は4月から新「社会人」になった卒業生や新入生のことが気になる。

 というのは、日本社会の新年度は4月からであり、いろいろなことがいろいろな場面で新しく動き始め、それらが「定常状態」に入るのがこの時期である。また、新年度のフレッシュな気持ちが徐々に薄れ、新しい環境に適応できなかったり、「ゴールデンウイーク」の連休疲れからなかなか立ち直れず、なんとなく気が滅入り、仕事や勉強に集中できない新入社員や新入生、いわゆる「五月病」患者が現われるのもこの時期である。

 私は「昔は・・・」と書くようになるのは、私が「年寄り」になった証拠であることを認めるが、「昔」と比べて、近年「五月病」患者が増えているような気がするし、事実、そうであろうと思う。

 もし、このことが事実とすれば、その理由はなんだろう。

 私には、さまざまな「文明の利器」に囲まれた社会生活、「便利」な食品に頼る食生活、ITの進歩によって激減した人と人との直接的な触れ合い、小さい頃からの過保護な生活、などなどが思い当たり、古代ギリシャの医聖・ヒポクラテスの「人間は自然から遠ざかれば遠ざかるほど病気に近づく」という言葉が思い浮かぶ。

 19世紀以降の科学・技術の急激な発達の結果を“文明砂漠”と表現し、自然環境だけでなく、極めて深刻なが進行しているという警鐘を鳴らし続けたエンデは、ある本の中に「最近、常に環境破壊のことばかりが注目されているけれども、“心の荒廃”は環境の荒廃と同じように切迫していて、同じように危険なものである」と書いていた。

 目に見える危機、目の前の危機にはある程度対処できるが、“心の荒廃”のように目に見えない危機、急激にではなく徐々に進行する危機には対処が難しい。エンデは“心の荒廃”に対抗するのに必要なのは「心の中に木を植えること」だといっている。

 先日、安曇野の友人のリンゴ園を訪ねたのであるが、リンゴの満開の可憐な花を眺めながら、私はエンデの「木を植えるのはリンゴが欲しいからということだけではない。ただ美しいからという理由だけで植えることもある。なにかの役に立つから、ということだけではなく、存在しているということがたいせつなのだ」という言葉も思い出した。

 自然を素直な気持ちで眺めることや世界の古典を読むことやさまざまな芸術に触れることなどが「心の中に木を植えること」なのである。

 私が親しくしている週刊誌の若い記者から最近「物質的な豊かさに恵まれている反面、殺人的な労働環境や、息つく暇もない忙しさで疲弊する人々が増えている現状、必要とされているのは“遊び”ではないかと思いました。効率を追い求められる社会では、“遊び”は無駄とみなされますが、機械にしても部品の結合部に“遊び”がなければ壊れてしまうわけで、そういう一見無駄なものこそ、実は重要な空間を形作るのだと思います。そういえば、人間の脳や筋肉も普段は20%程度しか使用されていないという話をききますが、そもそも人間の身体にも“遊び”ができているのだと思えば、生活にもまたその余裕が欲しいものです。無用の用とはよく言ったもので、経済的な貢献が期待できない一見、“無駄”なものに熱中する時間が、人を人たらしめるような気がしてなりません。」というメールを受け取った。このようなことを書ける人物であれば、心配はいらない。“心の中の木”はすでに育ち始めている。

 しかし、一般的に、“心の中の木”を育てるのは容易なことではない。社会の“砂漠化”が進めばなおさらである。