小泉すみれの最新ドラマ時評  小泉すみれ

 

第十二回 『前クールの総括と今クールについて』


昨晩『心がポキっとね』の初回を見たばかりであるが、まずは前クールの総括から始めてみようと思う。


結果として、最終話まで心待ちにしながら視聴を続けられたのは、次の二本。『DOCTORS3 最強の名医』(テレビ朝日)と『デート〜恋とはどんなものかしら〜』(フジテレビ)である。


見ていくなかでいくつかの気づきを得た。


田中麗奈(34歳)と深田恭子(32歳)。ともに芸能事務所入りが中2のときという<アラサー女優>たちが、女道の途上での<脱皮>というのか、エロ方面ジャンルへの挑みを見せてくれた。


微妙なお年頃にさしかかっているのだな、としみじみしてしまった。作品自体がいまひとつだったので言葉に詰まってしまうが、結果として、ふたりともに、上戸彩における『昼顔』のような転機作品にはならなかった。


しかしながら、『セカンド・ラブ』(テレビ朝日)での深田恭子の<女気>には深く感じ入るものがあった。


濡れ場シーンで果敢にも相手役の亀梨和也のボディをきれいに見せようとする配慮があることが、深田恭子の体勢から見て取れたのである。それには「加藤鷹か…」と感嘆しつつ、一方で亀梨和也には「女子か…」とツッコミを入れながら見たものである。


正直、深田恭子はどんな作品のなかにいても「深田恭子がいるなあ」とまずは思ってしまう。<ヌイグルミ女優>という分類に自分のなかでは入れており、牧瀬里穂がそのお仲間なのだが、それはそれとして、なかなかこのような存在感をたたえた女優は貴重である。が、このたびのドラマを見て、「ヌイグルミを脱ぐ日もあるかもしれない」という予感をもった。ナイストライ、である。


『流星ワゴン』(TBS)は、初回を見て思わず泣いてしまったものの、2話目からは絶え間なく父親に怒鳴られつづけているようで、呼吸が苦しくなった。


父親役の香川照之のせいではないのだが、真摯にその役柄を貫いているがために、かえっておそろしく一本調子になってしまった感があった。


主演の西島秀俊の、一人称での語り入れつつという役どころも、何度も何度もタイムスリップをして繰り返し同じ人生の土壇場に立たされているところを見ているうちに、ついには存在自体が平板に感じられてしまった。


繰り返し時空を超える親子の話なので、ドラマの内容的に、毎週見るには、時間の経過の仕方を自分のなかで確認する作業が必要だった。いつか機会があれば、一気にまとめて見てみたいとは思うが、香川&西島という名優&名物コンビをもってしても、真摯に取り組めば取り組むほどドツボにはまっていくような、むずかしい流れの脚本だったと思う。


『問題のあるレストラン』(フジテレビ)は、中折れしてしまった。がっかりである。脚本の坂元裕二氏の、問題を投げるだけ投げておいて最後まで回収しないという配球のクセが色濃く出ていた。「あとは視聴者それぞれに考えさせる」という託された意図ではなく、映像的に気を引くつかみとして<セクハラ>のシーンを取り上げていたように感じられた。


セリフが凝っているのでつい会話に気持ちが引き込まれて見入ってしまうのだが、ふと思ったのである。ものすごく可愛い女子たちがものすごく気の利いた面白いことを矢継ぎ早に言い合っていること自体がそもそも絵空ごとなのだが、これが脚本の坂元氏の思い描く<楽園>なのだろうな、と。


ひとりの脚本家の脳内にある楽園をワンクール見つづけるのも連ドラの醍醐味といえるのだが、ともあれ、前にあげた理由で中折れしてしまったのである。もうワンクールあれば…セクハラ問題も回収できたのだろうか。いや、おそらく坂元氏はさらにもうワンクールかけて<楽園>を追求するにちがいない。


そういった意味では、『デート』を担当した古沢良太氏は、坂元氏と同じく会話量の多い脚本家であるにもかかわらず、登場人物の配置や毎回の話の構成をコンパクトにすることで、中折れすることなく作品全体のコントロールに成功していた。


『デート』については、すでに一度この連載でも取り上げたが、脚本の構成についてはまだ触れていなかったと思う。じつは、古沢良太氏がフジテレビの伝統枠である<月9>でロマンチックコメディを書くときいて、「どのような登場人物配置で挑むのだろうか」と変化球を期待していたところ、意外にもバブル時代の<トレンディドラマ>の形式を絶妙にコンパクトなサイズ感で踏襲していたので、ほんとうに驚いてしまった。


とくに、ヒロイン(杏)とそのお相手(長谷川博己)の傍でつねに気を揉んでいる役回りのヤンキー兄妹(松尾諭と国仲涼子)が典型的だったのだが、かつて大多亮氏がプロデューサー時代に発した「ドラマには、なんで俺たちがこいつらの恋のためにこんなことまで…と演じている人が思うような虚しい役回りが必要である」(@『月刊ドラマ』誌の座談会)というドラマ観を体現している、まさしく<ザ・トレンディ>なキャラたちであった。


国仲涼子に関しては、向井理との入籍というニュース性もあり、不慣れなヤンキー役を無茶振りされた形だったし、松尾諭に関してはロック感の漂うヤンキー像を目指していたようだが、かえって「いったいどんなヤンキーっぷりだったのだろう」と想像させるような、実際、兄妹ともに<やらされている感>というのか、人工的なヤンキーっぷりのさじ加減が、ヒロインの恋のファンタジー感をすぐ傍で支えているようで面白かった。


構成でいうと、『デート』は毎回の冒頭部分で、まず、その回が行き着く物語上の<イベント>を見せてしまうことから始まっていた。<デート>だとか<結納>だとか<ヒロインの誕生日>だとかといった<イベント>をはじめに視聴者に見せておいて、それから「その三日前」「その一年前」といったテロップを入れつつ、物語が紡がれていくのである。


『デート』の場合は、とにかく会話の量が多いので、そういった時間の飛ばし方でオンエアの時間のコントロールに成功していたと思う。じつは、<その回の冒頭でイベントを提示する>方式のドラマは、前クールにおいて、同じフジテレビ系の中谷美紀主演の『ゴーストライター』でもそうだった。


そのため、「これはもしかして、なにかの視聴誘導的な実験なのだろうか」などと訝しく思ったこともあったのだが、考えてみれば昨今、単に視聴者に話の先を提示するという意味であれば、CMに入る前の提供企業の文字が流れる背後の映像でなされているのだから、それは単なる偶然だったのだろう。


そういえば、前クールでは、<バッドエンド>な作品が多かったことが話題になった。どのような最終回にするつもりなのかとプロデューサーに話をうかがうと総じて「10本に1本、気に入った終わり方ができるかどうか」といったところだから、物語を担うプロとしても、誰にでも納得がいくような終わりのつけ方はむずかしいものなのだろう。自分基準としては、終了の時間が迫っているにもかかわらず話が終わらない感じが漂っていると、「ああ、バッドエンドなオチになっちゃうのかな」などとあらかじめ覚悟しながら見ている。


オチのつけかたについては、数年前の話になるが、雑誌の座談会で若手の注目脚本家たちから興味深い話を聞いた。彼らは担当した作品がオンエアされるとき、インターネット上の<実況>をチェックしているというのである。執筆時には想定していなかった反応が即時にわかったりして、なかなかに新鮮らしい。じつは、この話は雑誌には載らなかった。ネット上で「◯◯さん、見てる〜?」などと呼びかけられたくないからかもしれないが、ネットで<実況>を見ている脚本家は意外に多いと思う。


わたし自身はネットの<実況>を見ながらドラマを見ることはないし、さらに、初見から<副音声>の解説をきくこともないのだが、リアルタイムでドラマを見ている際に<提供の文字の向こう側>に次の物語の提示を目にしてしまうと、バラエティ番組におけるCMまたぎの演出のごとく気持ちを誘導されているようで、「録画で見るようにしようかな…」と思う昨今である。


…さて。つらつらと書いているうちに、わたし自身の今回の連載も、脱線しながらなんだか中折れしてしまったようである。『問題のあるレストラン』の構成にケチをつけたくせに、である。申し訳ない。でも、書いていて楽しかった。


今クールの見どころとしては、脚本を担当する面々をながめているうちに、「これは1990年代のドラマなのか」と錯覚する…ことはさすがにないけれども、野島伸司、岡田惠和、中園ミホ…といった顔ぶれに、安定したクオリティを期待している自分がいるのである。前クールの坂元裕二、井上由美子も含め、彼らは80年代の終わりから90年代の前半にデビューした現在40〜50代の脚本家たちであるが、彼らがデビューした当時の連ドラはまだ、「一人の脚本家が強い作家性を投影して一作品を書き抜く」ということが当たり前とされる時代ではなかった。


はらはらしながら見ていた。彼らと一緒に遠泳しているような、時折、破綻を見せて溺れそうになる展開が思えばかえって新鮮に映った。その当時の自分と連ドラ作品たちが愛おしいが、とりあえず今クールである。どうか、どうか、見応えのあるドラマに出会えますように☆