宗教学者の父が娘に語る宗教のはなし 第2回    島田裕巳

 

 日本人が「無宗教」だというのは、君が日本にいたときもよく聞いていたはずだ。君自身も、「宗教は何か」と聞かれたら、「無宗教です」と答えたんじゃないかな。

 僕は宗教学者なので、さまざまな形で宗教と接する機会があるけれど、特定の宗教を信じているわけではない。だから、僕だって無宗教ということになる。

 そこからすれば、君が留学しているイギリスの人たちのなかに、「無神論だ」と答える人が増えているのも、日本と同じ方向にむかっているんだと考えることもできるね。

 でも、どうだろうか。

 そもそも、日本人の言う無宗教とイギリス人の言う無神論とでは、意味が違うんだ。それは分かるよね。

 無神論というのは、神は存在しないと考える立場だ。これまでのヨーロッパの社会では、どこでもキリスト教が浸透していて、ほとんどの人たちが神を信じていた。

 アメリカでは、少し前まで90パーセントを越える人たちが「神を信じる」と答えていた。アメリカでも、その割合は少し減っているようだけれど、キリスト教文化圏の人たちは、神への信仰を持つことが前提になっていた。

 無神論の立場というのは、昔からあるけれど、それは哲学と言うか、理性の立場から、科学でその存在が証明できない神など存在しないと考える、そうした立場の人たちのことをさしていた。

 ところが、現代では、哲学的に証明できないからということではなくて、感覚的に神が存在するとは思えない、あるいは自分にとって神という存在は意味をなさないと考える人たちが増えていて、その人たちが、自分たちは無神論であると言っているようなんだ。

 無神論が大衆化したとも言えるわけだね。昔、ニーチェというドイツの哲学者が、「神は死んだ!」と言って、ヨーロッパの人たちを驚かせたけれど、その考えが今では当たり前になっているとも言える。

 それに対して、日本の場合だけれど、君や僕も含め、無宗教だと言っている人たちは、無神論の立場にたっているわけではない。神の存在を否定しているわけではないんだ。

 だってそうだろ。

 そうそう、君が留学する前、家族で食事に出掛けたとき、たまたま近くの神社の前を通ったら、君が「寄っていこうよ」と言い出したのを覚えているよね。

 家族3人で拝殿の前に行って、拍手を打って参拝した。皆、別に話し合って決めたわけではないけれど、君の留学が無事であるように祈ったんじゃないかな。

 君も、いつになく長く祈っていた。それから君は、社務所で、「学業成就」と「旅行安全」のお守りを買っただろ。おみくじまで引いて、「中吉」が出てほっとした顔をしていた。昔、どこかの神社で「凶」を引いて、君が泣き出したことを覚えている。

 もし君が無神論者で、神の存在を完全に否定しているのだとしたら、神社の神さまに祈ったりするのは、ひどくばかげた行為になる。お守りだってそうだよね。

 君も、正面から「神を信じていますか」と聞かれたら、「信じている」とは答えないかもしれないけれど、神社で神さまにお祈りだけはするわけだ。

 日本人は、僕らの家族のように、何かあると神社に行って、神さまにお祈りをする。神が存在すると強く信じているわけではないけれど、だからといって神がいないと考えているわけでもない。だから、お祈りはする。

 かなり曖昧な態度ということになるけれど、それが案外、日本で宗教が生き延びている理由になっているのかもしれない。

 イギリスの自分は無神論だと言っている人たちは、そんな行動はしないはずだ。娘が留学するからといって、家族で教会に出掛けて、お祈りしたりはしないだろう。

 そう考えると、日本人の無宗教というのは、いったいどういう意味なのか、それを改めて考えてみる必要が出てくる気がする。

 日本人が無宗教だと言うときに、それは、神さまも仏さまも、そうした人間を超えた存在のことをいっさい信じていないということではないわけだ。

 神も仏もいないと思っていたら、神社に行くのも、お寺に行くのも、意味のないばかげたことになってしまう。

 おそらく日本人の無宗教というのは、特定の宗教を信じていないとか、どこか特定の教団には所属はしていないという、そういう意味ではないだろうか。

 留学前に、イギリスで「あなたの宗教は何か」と聞かれたら、簡単に「無宗教です」と答えない方がいいんじゃないかと僕が言ったのも、そういうことが関係している。

 日本人は無宗教だからといって、宗教を否定しているわけでもなければ、神や仏を否定しているわけでもない。やはり無神論とはかなり違う。

 そこらあたりのことはなかなか複雑で、どう説明するか難しいところだけれど、イギリスの人たちの暮らしと比較してみると、日本人は案外、宗教的に見えてくるんじゃないかな。