ストレンジな人びと
作家 清野かほり
連載第3回
フルーティー男子
朝、駅に向かう都バスに乗っていた。途中から乗って来た20代半ばくらいの男子が、私の左隣に座った。
彼は全身黒ずくめのファッションだ。黒のシャツに黒のジャケット、黒のパンツ、黒の靴。黒い髪をスタイリング剤でホイップクリームのように、半分渦巻き状にセットしている。彼はいわゆる〈オシャレさん〉だ。
ちらりと顔を見た。けっこうイケメンじゃん。
隣に座られて、なんだかちょっと嬉しいぞ。
「隣に若くてかわいい女の子が座ると嬉しい」。そんなおじさんの気持ちが理解できた。やっぱり私もおばさんだからか。
バスの振動を揺りかごにして、黒ずくめ男子はうたた寝を始めた。バスが右にカーブすると、彼が肩に凭れかかってくる。
うん、悪い気分じゃない。ぜんぜんない。
急接近した彼のボディーから、微かな香りが漂ってきていた。
ヘア剤か、パフュームか分からないが、これは甘酸っぱくて、胸の奥がピリンとする爽やかな香りだ。
この香りは……フ、フルーティーだ!
驚いた。私の記憶にあるメンズ化粧品といったら、もっと男臭くてジャコウ臭くて、鼻孔を刺激する強い匂いだ。
〈フルーティー男子〉
私はすぐに、そうネーミングした。
そして、こう思った。いいじゃないか、男子が女子化したって。べつにいいじゃないか、精子の数が減ったって。
フルーティー男子はバスが揺れるたび、ますます肩に寄りかかってくる。私は密かに鼻をくんくんした。
うん、悪い気分じゃない。ぜんぜんない。
浅い悦に浸っていると、バスの終点だった。乗客がどんどん降りて行く。
だけどフルーティー男子は目を覚まさない。通路側に座っている彼が降りないと、私も降りられない。起こすタイミングを迷っていた。
乗客は、とうとう2人だけになってしまった。
私は彼の肩にそっと手を置いた。ぽんぽんと、やさしく2回。
はっとして目を覚ました彼は、瞬時に立ち上がってバスを降りた。
私はその後のフルーティー男子の表情を見たかった。ほんのり顔が赤くなっているのか。少し困惑した顔になっているのか。
振り返ってでも見たかった。だが、できなかった。この羞恥は、まだおばさんに成りきっていない証拠だと自分を慰めた。
駅から、通勤ラッシュでぎゅうぎゅうの山手線に乗った。ここにも香りがあった。車輌いっぱいに溜まったノネナール。おじさんフレーバーだ。
ダメだ……。
さっきまでフル稼働させていた鼻の機能をシャットアウトした。ごめんなさい。