ストレンジな人びと

               作家 清野かほり

連載第38回

身近な教祖さま


 同じこのホームページで有名な宗教学の先生が書いていらっしゃるので、もしかしたら叱られてしまうかもしれない。

 実は私の身近なところに「教祖さま」と呼びたくなる女性が存在する。彼女は私を含めた悩める友人知人に、すとんと落ちる一言、ドスンと響く言葉をよく残すのだ。その女性を教祖とした小集団を私は独断で、ターカマ教(仮称)と命名した。

 仕事がいっぱいの、ある人のところに、なかなか手強そうな仕事がまた新たに舞い込んできた。パニックになりかけている様子を見て取ると、教祖さまは仰った。

「大丈夫、できるよ。できない仕事は降ってこないのよ」

 彼女はその言葉のおかげで力が漲り、難所を乗り切ったそうだ。

 一回りほど年上の彼と付き合っている40代の友人が、数十年後の未来を案じていた。彼はあと何年、働けるんだろう。子供を作っても育てていけるんだろうか。将来、彼の介護は私が……? などと悩んでいるときに教祖さまは、涼しい顔できっぱりとお言葉を授ける。

「今を楽しみなさぁい」

 言葉を落とすタイミングの良さ。理屈抜きで、なぜか納得してしまう説得力。人の心を軽く明るくしてしまうその言葉の力強さに、言われた当事者は、何か神がかり的なものを感じてしまうのだ。

 ターカマ語録は、まだある。

「(人生において)必要なときに、必要なものが来るのよ」

「鏡と過去さえ見なければ、誰でも美男美女だよ(笑)」

 私も教祖さまには、よくご教授いただく。

「相手を見ることによって、自分がどういう人間か分かるのよ。それが人と付き合うことの、面白いところ」

「誰かに親切にされたら、親切にしてくれたその人にじゃなくていい、またべつの誰かに親切を還せばいいよ。そうやって善い行いが社会に回っていくの」

 はあ、なるほど。実に深いお言葉です。

 私はときに、お叱りの言葉もいただく。

「何もかも、出来ないのは己のせい」

 そうか、著書が売れないのも自分のせいか……。そんなときは、尖った両肩を落とすしかない。

 教祖さまの職業はイラストレーターだ。いつも不思議に思うと同時に、私は嫉妬もする。小説も書いているが、私はコピーライターだ。〈できるだけ短く的を射た言葉を摘出する〉のが仕事だ。教祖さまの表現方法は〈絵を描くこと〉であり、それが日常の仕事であるのに、なぜこんなに的確に、茫漠とした哲学的思考を言語化できるのだろう。漠然としたものを言語化することに関しては、私のほうがプロのはずだ。なのにいつも、教祖さまの〈ど真ん中ぶり〉に負けてしまうのだ。少し悔しい。

 だがその不可思議さが、教祖さまを「教祖さま!」と感じさせるポイントでもある。

 最近では、すっかりターカマ教の信者となった友人と私は「そろそろ布教活動を始めようか」などと話し合っている。教祖の言葉を私が書き留め、グラフィック・デザイナーである友人が、紙面を割り付けてデザインする。そして知り合いの印刷会社に格安で依頼し、ターカマ教の教典を刷ってもらうのだ。刷り上がりを持って信者たちは街角に出没し、教典を配る、配る、配る。

 善い教えは広めなければならない。多くの人が救われ、善行に勤しむようになれば、きっと世界平和が実現するはずだ。