ストレンジな人びと
作家 清野かほり
連載第36回
74歳のロードスター
突き抜けるような青空。深緑に萌える山の道をくねるように走るワインレッドのスポーツカー。ロードスターだ。このオープンカー、ツーシーターのハンドルを握るのは、シルバーグレーの髪をした男。彼はいま、山奥に構えた一人用の別荘に向かっている。
この図は、私の勝手な想像だ。断片的に与えられた情報から導き出したものだ。しかも車の色も、私の勝手な想像だ。
その人物は、ある会社の会長である。私が仕事で会社にお邪魔すると、いつも気さくに話しかけてくれる。
「清野さん、実はね、ロードスターを買ったんだよ」
その言い方は耳打ちに近い。宝物を手にした少年のような笑顔だ。
「ロードスターって、あのロードスターですか?」
「そうだよ、あのロードスター」
私は一瞬、絶句した。
「わ、そうなんですか? 凄いですね! 今度、私も乗せてくださいよ」
「それがダメなんだよ、ツーシーターだから」
「え、助手席があるじゃないですか」
「それがダメなんだよ、助手席には荷物を載せちゃうから」
また一瞬、絶句した。会長は少し照れたようにニコニコしている。
「その車で別荘に行くんですか?」
「そうだねぇ」
言いながら会長は、少しずつ私から遠ざかって行く。これ以上、深くは突っ込まれたくないようだ。
以前、教えてくれたことがあった。会長はある山奥に、畳にして三畳ほどの山小屋のような別荘をもっている。荷物を置いたら人間が一人、横たわれるほどのスペースしかない。74歳の現在でもたった一人で、ときどきその山小屋別荘に出かけるらしい。そこで何をするのかといったら、何もしないそうだ。ただ、誰もいない、音もない、光さえない山奥で、ただ一人の静かな時間を過ごす。まるでCW・ニコルみたいじゃないか。
逞しい。これぞ本当の大人、男の余暇の過ごし方だ、と思った。そんな時間を愉しめる大人が、この日本にどれくらいいるだろう。
次は10年ほど前の話だ。私は見てしまった。会長の高校時代からの友人で、元電通マンのプランナーが、会長に何かをこっそり手渡していた。何かひそひそ話をしながら。ビニール袋に入っている物。何かの木の根っこのように見えた。後で知ったのだが、どうやら冬虫夏草らしい。誰もがすぐにピンとくるのが〈精力剤〉というワードだろう。
数年後、あのときのことを会長に訊いてみた。その現場を目撃してしまったことを告げて。
「あれって精力剤、ですよね?」
会長は顔を赤らめ、大きく手を振った。
「そう思うでしょ? でも違うんだよ、清野さん。あれはガンに効くっていうから調達してもらったんだよ」
私はまた絶句した。そして絶句したまま、次の質問を繰り出すことができなくなった。
冬虫夏草事件当時、会長は60代半ばだった。彼女がいてもおかしくなかっただろう。いや、ロードスターに乗っている現在だって、いてもおかしくないだろう、と思う。なにしろ会長は、いい男なのだ。ルックスは精悍でありながらソフト。性格はチャーミング。もちろんお金だって、たんまりと持っている。
会長は、なぜ私を彼女にしてくれないのか。そう思った時期があった。いや、この原稿を書いている現在も思っている。なぜだ。たとえ3番目だっていいのに。私はいま、眉根にシワを寄せ、奥歯を嚙みしめている。なぜだ、と呟きながら。