ストレンジな人びと
作家 清野かほり
連載第33回
サラリーマン安倍晋三
乗車駅でちょっと見ただけのときから、どこかで見た顔だ、と思った。電車が到着し、その男性が私の真正面の座席に座った。
皮膚と肉が柔らかいため縦長になった、その頬。ハの字の眉毛にタレ目。長めの鼻におちょぼ口。黒髪はふさふさとしている。この国の首相を20歳ほど若くしたような顔だ。その少し不機嫌に傾いた無表情を見た私は一瞬、吹き出しそうになった。
面白いなぁ、地下鉄の中でプチ総理大臣にお会いできるなんて。
彼は明るい紺のシングルスーツを着ていた。ワイシャツにノーネクタイ。クールビズか。膝の上にナイロン製の四角く分厚い鞄を乗せている。よく見ると、少しトウの尖った革靴は黒に近い濃紺だ。ファッションには彼なりのこだわりがあるかも知れない。
もちろん私は彼を〈サラリーマン安倍晋三〉とネーミングした。
リーマン首相は膝上のバッグから文庫本を取り出し、読み始めた。カバーを取ってある、裸の文庫だ。レーベルが新潮文庫だということは分かった。だが視力が悪いせいで、そのタイトルが見えない。漢字2文字であることには間違いないのだが、老眼も手伝って、その漢字がどうしても読めないのだ。悔しい。彼が一体、何に興味を持って、何を読んでいるのかを知りたかった。
私は想像した。その文庫の2文字が『戦争』なのか『軍事』なのか『株価』なのか。もちろん、そんな不自然なタイトルのはずはないのだが、文庫の表紙を凝視し続けている私には、次第にそういう類の単語に見えてきたのだった。
リーマン首相の隣には、黒縁眼鏡をかけたTシャツ姿の若者が座っている。若者はスマホを見ながら、小さく体を揺すっていた。そのうち若者は貧乏揺すりを始めた。その揺すりがスピードを増し、次第に激しくなった。
リーマン首相は、わずかに不快そうな表情で貧乏揺すりの彼を見た。横目でチラリと。
ああ、苛ついているんですね、首相。私は苦笑を噛み殺した。
若者は貧乏揺すりを止めない。そのうえ、小刻みに動く腕が首相の腕に触れてしまった。リーマン首相は明らかに肩をすぼめ、体の中心に腕を引いた。
私は不安になった。そのうちプチ総理が立ち上がり、「積極的平和主義!」なんて叫び出すのではないかと思ったのだ。
ちょっと待ってくださいよ、総理。落ち着いて。武器は要りませんよ、ここは電車の中ですから。
もちろんそれは私の妄想で、電車が停まるとプチ総理は席を立ってホームに下りた。その駅は『都庁前』だった。
もしや、と思った。私はとんでもない勘違いをしていたのかも知れない。もしかしたら彼は〈サラリーマン安倍晋三〉ではなく〈公務員 安倍晋三〉なのではないか。だとしたら、思い込みを正さなければならない。彼は会社のためではなく、都民のために働いているのだ。市民のために働く人が、そう簡単に武器などを売ったり使ったりするはずがないのだ、と。
最近、筆者は、自分の過去の話や電車の中などで見かけた人ばかりを書いている。それもやはり、どこかに出かけて新たな人と交流する機会がないからだ。「取材」といわれるものには時間と経費がかかる。筆者には比較的時間はあるが、経費のほうが足りない。圧倒的に足りないのだ。
ということで社長、あとちょっとだけでいいので原稿料を上げてください。