ストレンジな人びと

               作家 清野かほり

連載第31回

恋する文芸編集者


 人を好きになる、という感情にも何種類かある。本能的に惹かれる場合もあれば、理で惹かれる場合もある。自分に似ているから好きにもなれば、自分にない部分があるから惹かれもする。

 惚れる、尊敬する、憧れる、ああ愛してる。その表現はいろいろあって書ききれないけれど。

 数は両手で足りるほどだが、私にも文芸編集者との付き合いがあった(あるいは、まだある)。個人的な感想だが〈文芸〉と名の付く編集者には、ある共通の特徴があるように思える。

 それは、惚れっぽいことだ。ある作家の作品を読んでは好意を持ち、本人に会えば惚れてしまう。新しい作家を見つけると、またその人に惚れてしまう。あっちこっち、そっちどっちだ。

 私も文芸編集者から、いくつか口説きのような言葉をいただいた。「文章が上手いですね。何十年も書いていても、上手くならない作家もいるんですよ、本当に」とか「私は清野さんの才能を信じています」とか「すごいすごい、面白い!」とか「清野さんの文章にはアフォリズムがある」とか「才能はあると思うんだよ、でも才能があることと売れることは別だから」とか言ってくれた。

 物書きにとっては褒め殺しに近い。最後のセリフは、だいぶ微妙だが。

「物を書く」という行為は自分を晒すことだ。書いたことはすべて自分の頭の中にあることだし、頭の中にないことは一行だって書けない。自分でも意識せぬ間に、人格、思考、感性、知識のありナシが出てしまう。頭の中を晒すことは、この世で最も恥ずかしい行為のような気もする。その半ば自傷行為を真っ向から受け止める文芸編集者は、書き手の核心に触れたような感じがするのかも知れない。そして、その核心に共鳴すると、惚れる。

 だからなのか、作家と文芸編集者とのあいだには、原稿のやりとりをしているときは特に、恋愛に似たような感情が生まれることがある。

[自分をさらけ出す → 受け入れる → 共鳴する → 気持ちを共有する]

 このプロセスが恋愛にそっくりだからだろう。

 書き手からすれば「ああ、分かってくれるんだ、よき理解者だ」となる。人は自分を理解してくれる人に心を許すものだ。実際、作家と担当編集者が恋愛関係になるというのも、ちょくちょく聞く話だ。

 だがその文芸編集者も、世の中に作家はたくさんいるから、また惚れる。あっちでもこっちでも惚れる。惚れっぽいことは、言い換えれば移り気だ。言ってしまえば、彼らは浮気者である。それも職業人生において、半永久的に続く浮気癖である。

 あっちの女、こっちの女。浮気性の男が結婚をしても一生、浮気癖が治らないのと同じようなものだ。

 けれども。その気持ちは分かる。私自身もある小説を読んで凄いと思えばその作家本人に惚れ、また別の作家の小説を読んでは惚れる。今まで惚れた作家の名前を列挙はしない。浮気遍歴を披露するようなものだからだ。

 ああ、なんだか今回は堅い話になってるな。笑えるところなんか1カ所もないじゃないか。今までで笑えない回も多いけど。

 そう感じた読者のみなさん、その通りです。精進します。