ストレンジな人びと

               作家 清野かほり

連載第29回

ギャン泣きギャング


 コンビニへ行く道すがら、父・母・娘の親子とすれ違った。小学3、4年生の髪の長い女の子が泣き喚いていた。ギャンギャン泣きながら何か言っているので、その言い分はまったく聞き取れない。彼女は歩きながら頭をのけ反らせ、大きく口を開けてギャンギャン言っている。

 声を上げて私は笑った、彼女と同じように頭をのけ反らせて。

 私と一緒にいた友人が言った。

「子供っていいよねぇ、人目を気にしないで、あんなふうに泣けて」

「ほんと、あれだけ豪快に泣き喚いたら、さぞかし気持ちよかろうね」

 泣くことは感情の爆発であり、一種のストレス発散だ。私たちは笑いながらコンビニに入った。

 ある日、駅までの道のりでも同じ光景に出会した。4、5歳の娘の手を引いたお父さんが携帯で話していた。

「すみませーん、うちの娘がギャン泣きしておりまして……」

 電話の相手に恐縮している。子供がギャン泣きしているせいで約束の時間に遅れる、そういうことだろう。小さな彼女は相変わらず、お父さんのズボンを握りしめて大声で泣いている。

 いいなぁ、泣いていることを叱られずに、逆に親に謝らせるなんて。

 ギャン泣きギャングは家の近所にもいる。パソコンを前にしていると、泣き声が部屋まで響いてくるのだ。姿を見たことはないので、男の子か女の子かは分からない。声の感じからして5歳くらいだろう。彼あるいは彼女は、ほぼ毎日、泣き叫んでいる。何が不満なのか、何がそんなに悲しいのか。理由は不明だが(やっぱり言葉は聞き取れないので)、とにかくいつも力の限り泣き叫んでいるのだ。

 ああ、また始まったな……。一体、キミはどこの王子様あるいはお姫様だ。この世はそんなに嘆かわしいか。民はキミの言い分をいつも聞かねばならぬのか。それが毎日のように抱く感想である。

 だが同時に、自分に正直に泣ける子供を羨ましいと思う。

 私は泣かない子供だった。ADHDがゆえ、外で遊ぶと必ずと言っていいほど転んでヒザに擦り傷を作った。右ヒザか左ヒザ、いつもどちらかに血が滲んでいるか、カサブタができていた。どんなに酷い転び方をしても泣かなかった。歯医者で歯をギュンギュン削られて痛くても、一人ぼっちで淋しくても、人前では泣かなかった。

 いま思うと、その頃の自分はバカだったのだと思う。我慢などせずに、もっと素直に泣けばよかったのだ。そうすればストレスというやっかいなものは、きっと半減したはずだ。数々の研究で判明したように、流した涙に混じって、実際にストレス物質が排出されるというではないか。そのおかげで気分がスッキリするのだ。(ああ、だから泣ける映画や小説がヒットするんだな)

 大人だって泣けばいい、と思う。泣きたいときは、オジサンだって泣けばいい。さすがに取引先や会社では泣けないだろうが、親しい人の前でなら泣いてもいいのだと私は思う。

 誰なんだ? 「男の子は泣いちゃいけない」とか「大人は人前で泣くものではない」なんて言ったヤツは。その言説のせいで、大人はストレス抱え込みすぎているんじゃないかと思う。特に男性たちは。

「もっと泣け! もっと喚け! 腹が減ってるなら、でかい声で大人たちにそう言ってやれ!」

 これは拙著『ID』のなかで、シュウという14歳の少年が叫ぶ言葉だ。

 泣けばいいじゃない。辛いこと、悲しいこと、悔しいこと、寂しいこと、理不尽なことがあったら、大人だって泣けばいいよ。大人の当事者となった私はいま、強くそう思うのだ。