「パズル」PUZZLE 第9回「春のリゾット」  井上都


 「旅先で会ってるぞ」

記憶はなんて頼りないのだろう。母と男の縁が切れていないことを知ったあの夜は、いったい何月だったのか。冬だったか春だったか。あの夜、あの後、私はどうしたのか……。何一つ覚えていない。BGMの音楽とまわりの喧騒と私にそのことを教えた舞台監督の顔とが心に刻まれているだけである。

父にそのことを伝えなかった。母にも問わなかった。言えなかったし訊けなかった。ほんの少し、その舞台監督を恨めしく思った。わざわざ教えてくれなくてもよかったのに。知らないほうがよかったのに。

それから、しばらくして末っ子の妹がフランスへ発った。フランス行きは長いこと妹の念願だった。パリに住む日本人御夫妻の家に居候させてもらうことになっていた。

発った日の朝のことはおぼろげな記憶があるのだが、そこには父と母の姿がない。ということは、もうすでにこの年1987年(昭和61年)の春には母は再び家を出ていたのかも知れない。

ああ、ほんとうに記憶が定かではない。悲しいことに覚えていないのだ。

この年の初めにひとつだけはっきりと覚えているのは、私が父の代理として、母と離婚した後に父が再婚することになる人が開いている料理教室に行かされたことだ。

その人が母と姉と住むその清潔な一軒家は、浅草橋から都営線に乗り馬込で降りた静かな住宅地に建っていた。

料理教室に通う約束をしたのは父である。一回目の初授業に欠席し、代わりに私を行かせることにしたのは、母が家に戻ってきたからだろう。戻ってきたと父は思っていたからだし、離婚をなんとか回避できるのではないか…と、家中がそう信じていた頃だったからだ。運命って本当に思いがけない。後の展開を知っていたならば、私は「はいはい」と父の代わりに行ったりしなかったのに。

何人かの生徒さんがすでに立ち仕事をしている明るい台所で、紹介はされたものの所在無くキョロキョロしていた。

献立は何品かあったはずだが、覚えているのは、豆かアスパラガスか菜の花か、とにかく緑色の鮮やかな春のリゾットだけだ。

そのときの私は、リゾットなんて聞いたことがなかった。我が家では絶対に食べられないものだった。白い皿に見たこともないほど美しく盛りつけられて目の前に差し出されたリゾット。それは、おそらく3口くらいで食べ終わってしまうだろうほど少量のおじやみたいな、でもいい匂いのする食べ物だった。しかも、一人に一枚ずつ小さなテーブルクロスのような布が配られ、それを食卓に敷いてその上で食べるのだと言う。いまではそれをランチョンマットというのだと知っているが、あの日の私にはびっくり仰天以外のなにものでもなかった。イタリア語がペラペラで長く外国に住んでコックをしていたというその女先生は(のちには継母になるとは露とも知らず)なんてお洒落な暮らしをしているのだろう。さらに、昼間から背の高いきれいなグラスでワインも飲んじゃうんだあ。帰りになにか父へのお土産をもらったようなもらわなかったような…。タイル張りの真っ白なこれまた清潔なトイレへの驚きと共に、私は父に、私が見たもの感じたことすべてを報告した。もちろん、「すごく素敵だった」と付け加えることも忘れずに。

春のリゾット。忘れられない一皿だ。