「パズル」PUZZLE 第7回「オレンジ色のドア」  井上都


 父と母が最初に持った家は千葉県・市川市の下総国分寺裏の建売住宅だった。小さな道の両脇に同じような造りの家が全部で10軒、長屋のように並んで建つうちの一軒で隣りには母の姉である伯母家族が住んでいた。おそらく伯母を慕う母が、伯母夫婦に倣ってそこを当時の父と母からしたら少々背伸びをして買う気になったのだろうと思う。

 記憶する限りでは、その小さな家に、父と母、私と二人の妹、それから母方の祖父母の7人で住んでいた。が、父と母が家を買った当初、祖父母はまだ自分達の家、浅草橋にあるマッチ箱のような家に住んでいたようだ。父が直木賞を取り仕事が忙しくなったのと、髢(かもじ)職人だった祖父がなんらかの事情により仕事を辞めることになった時期が重なったのだろうと私はそう見ているが、とにかく私は長いこと祖父母は最初から同居していたと思い込んでいた。ちなみに隣りの伯母の家には祖父の母、曾祖母が伯母家族と一緒に住んでいた。

 ここで10年ほど暮らしていた。私の年齢でいえば、3才から12才までである。この小さな建売住宅の家での日々、歳月は、実に楽しい思い出で彩られている。

 大きな文学賞を戴き、父への仕事の依頼も増えて、また父が原稿を仕上げるのが非常に遅かったものだから原稿を待って泊まり込む人も日毎に増えていった。常に誰かが一緒に生活をしている…という状況が当たり前になっていった。それが理由だったとは思わないが、父と母はもっと大きな家が欲しいと考えたのだろう。借金をしても返せる自信もついてきていたのだろう。国分寺裏の家から松戸の方に15分ほどのところに土地を買い、そこに家を建てることにした。昭和50年のことだ。

 家を建てると決まった日から、晩ごはんの後、父が私達姉妹三人を居間に集めて、自分が描いた新しい家の設計図を説明するというのが毎日の決まり事になった。毎晩、最新の設計図をテーブルに広げ、父は嬉々として話し始める。次々と変化する設計図だが、どの設計図にも必ずあるのが螺旋階段だった。上の階に上がるのは決まって螺旋階段。私達三姉妹も

「わあーすごい」を連発した。父が夢想していた家の見取図などはまったく忘れてしまったが、確かに夢のような家だった。古きアメリカ映画の中で何度も観ては憧れたもの、暖炉や足を伸ばせる浴槽、吹き抜けの玄関、なによりも魅力だった一人一人の部屋。あのままの家がそのままに建っていたならば、どんなに素敵だったろうかと、今更ながら思う。

 いざ、工事が始まると、何度も何度もそこを見に行った。母が運転する車に乗って、ものの5分とかからなかったから、昼間行ってまた夕方行って……そんなこともザラにあった。父も母もよほど嬉しかったのだろう。今度は建売ではない。自分達で設計図を描き、注文をつけて建てる初めての家だもの。52才、賃貸マンションに住むいまの私は、その高揚感が手にとるように分かる。

 しかし、父の設計図はどう活かされたのか…、いまだに私は不思議に思っているのだが、出来上がった大きな家は、私の思い描いた家とは全然違っていた。いや、違っていても構わなかった。新しい家、自分だけの部屋、それだけで充分に嬉しかった。ウキウキ気分で引っ越しをしたのだから。ただ、どうしても頭を捻らざるを得ないことがひとつだけあった。それは、ドアというドアがすべてオレンジ色だったということだ。

 オレンジは嫌いではない。むしろ好きな色の一つだ。幼い時分からクレパスのオレンジが大好きだった。なんとも言えないきれいな色に、ずっと使わずに眺めていたくらい好きな色だ。だが、日本家屋のドアにはどうだろうか。しかも、そのオレンジは、明るく澄んだオレンジではないのである。黒が混ざったような暗いオレンジだった。うーん、なんだか気に入らない…。そう思った。ずっと思っていた。その家から離れてしばらく経ってから二人の妹と話していたときに、私ばかりではなく妹達もあのオレンジ色のドアが嫌いだったと口を揃えて言った。驚くと言うよりは「やっぱりなあ」と、そう思った。

 家は生き物なのだ。なんか気に入らないと感じたときにはまるで解っていなかったが、あの大きな家で私達家族がバラバラになった後、つくづくと怖いくらいに感じた。

「あのドアはどう考えてみても、おかしい」

 なぜ、父も母も、あんなドアをつけさせたのだろう。あのドアで承知したのだろう。どうして? どうして? どうでもいいことなのだけれど、いまとなってはそんなことはどうでもいいことなのだけれど。あのドアが、たとえきれいなオレンジ色だったとしても、はたまた木目かなにか家にピッタリと合うようなものだったとしても、白であっても黒であっても、だからってそれで運命が違っていたわけではないはずだ。しかし、あの大きな家を思い出すたびに、どうしても考えてしまう。家中のドアがあの色でさえなかったら……と、そう考えてしまうのだ。


 北国から戻ってしばらくしたその年末に、父と母の作った劇団が紀伊國屋演劇賞団体賞を受賞した。それは、我が家にとって、とりわけ父にとっては吉報だった。これで母も落ち着いて仕事に集中してくれるだろうと、そう父は思っただろうし、私も少なからず、母を繋ぎとめる力にはなるはずだと考えた。

 父が母にそんな話を、かなり乱暴にではあったが、もう逃げられないぞというような極端な言い方ではあったけれど、そう怒鳴っている声を、オレンジ色のドアに耳を押し当てて聞いていた。あの夜が昨日のように心で再生されている。