「パズル」PUZZLE 第6回「雪 3」  井上都


 肩を寄せ合い頭をくっつけ合って眠る妹達を前に私は一睡も出来なかった。夜行列車の座席は90度の直角のまま私達を労わってもくれない。

 北へ向かうほどに、夜明けが近づく。窓についた結露をこすって外を見てみれば雪が積もっていた。私も妹達も慌てて家を出てきたせいでちゃんとした冬のコートさえ着ていない。後悔した。なにも夜行列車で来なくたってよかったのだ。明日になって私一人で新幹線に乗って来たってよかったのだ。そうすればこんな寒々しい旅をしなくても済んだ。妹達を連れて来なくてもよかったのだ。これじゃあ、風邪をひいてしまうし、首がおかしくなってしまう。途端に不安が押し寄せた。そして、心から心から後悔した。二人の妹が不憫で仕方がなかった。私達親子はいつだって家族一緒に居られることを何よりも尊重して仲良くやってきたではないか。どうしてこんなことになってしまったのか。

 小さな駅のホームは雪で真っ白だった。そこに降りたのは私達三人だけだった。風で舞い上がる雪で前がよく見えない。

「さむーい」妹達は二人一斉に声を上げた。

「さむいね。だいじょうぶ? さむいでしょ?」

「うん、さむーい」二人は抱き合って笑いながら私にしがみついてきた。

「さむーい」と三人で声を合わせ体をこすりあった。

「どこ? どうするの? 道わかるの?」とすぐ下の妹が訊いた。

「うん……迎えに来てくれてるはずなんだけど……」とにかく改札を抜けようと歩き出した。

 いつもそうしているように私が一人先頭を歩いた。妹達は二人腕を組み後ろからついてくる。

どこへ行っても三人でいるときにはこの形だ。ここに父と母が加わると、すぐ下の妹は父と手をつなぎ、末の妹は母の腕にしがみつき、その一番後を私が一人で歩いた。それが家の安定した形だった。いつもの歩き方だった。

 改札を通り、やみくもにただ目の前の道を歩き続けていると、向こうから歩いてくる人影とぶつかった。私達に気づいたのか、その輪郭が小走りに近づいてくる。

「さむいとこぉ、よぐおいでくだったなあ」

 腰を折り、私達に傘をさしかけそう言うその年配の女の人が、母が駆け落ちした相手の男の母親だった。てっきり母が迎えにくるのだろうと思っていた私は強張った顔のまま軽く会釈を返した。


 通された部屋はストーブが焚かれ暑すぎるほど温められていた。部屋の奥が台所になっていて、そこと部屋とはガラスの入った障子で仕切られている。部屋の真ん中に長炬燵があり、炬燵の上には様々な手料理が隙間なく置かれていた。


「さあさ、あたたまって。腹すいたべ。好みのものかわからなかったけど、よかったらあがってください」と、お母さんは言った。母の姿は見えない。

「あの、母はどこにいますか?」

「ああ、いま呼んでくっから」

 そう言ってお母さんは隣りの部屋へと通じているだろうドアの向こうに入って行った。

 もう、早く帰りたいのに、ご飯なんて食べてる暇ないのに、もう、やんなっちゃう。

 妹達はお腹が空いているようだ。炬燵に並べられた料理を指さしてなにかおかしそうに喋っている。

「いいよ、食べて。きっとあたし達が来るからって作ってくれたんじゃない? 食べていいよ」

 それでも妹達は部屋の隅っこに座って首を振っていらないよと首を振った。

 しばらく待っているとふてくされたように母が入ってきた。私達の誰とも目を合わせようとはしない。

 「よく来たねえ」とも「何しに来たの?」とも言わず、暗い顔を崩さない。陽気な人だと思われる母だが、実はとても神経が細い。普段、陽気な自分を回りに振りまいている分だけ、一度気持ちが沈むとそう簡単にはそこから戻ってこない。幼い頃からいつも私が不安に感じていた母の表情だ。いつもなら「ママ」と甘えて抱きつくはずの末の妹も、暗い母の表情に様子を伺っている息づかいでジッと母を見ているきりだ。母が何も言わないので仕方なく私が口火を切る。

「あのね、パパがね、ママに帰って来て欲しいんだって。ママが帰ってこないと死んじゃうって言うの。それで三人でね、ママを迎えに来たの。一緒に帰ってくれないかな?」

 母はうつむいたまま何も言わない。「わかった、いいわよ」とも「ダメよ、私は帰らない」ともなにも。

「どう? 帰ってパパともう一回話をしてもらえない?」

 傍で聞いていたお母さんが私に加勢してくれようと言葉を挟む。

「会ってもらいたい人がいるからって、連れて帰るからって、それがあなたみたいな若いお嬢さんならどんなに嬉しいか。それがあんた立派なご主人がいる人で……わたしもなんて言っていいか……こうやって迎えにきてくれたんだもの、帰ってあげて欲しい。私も帰って欲しい」

 お母さんに帰って欲しいと言われると、うな垂れる母が無性に哀れに思えて、私も力が入る。

 「とにかく一回帰って、パパともう一回話してよ。帰ってくれないと私が困る。ママを連れて帰るってパパと約束したんだもん。ママが簡単に帰るって言いたくないのはわかるけど、とにかくさ、一回帰って来てよ」

 母はスーッと立ち上がり無言で隣りの部屋へ消えた。隣りの部屋には男がいる様子で、何やら話し声が聞こえる。

 妹達を見やると、二人でコソコソ内緒話をしている。笑顔が見えるので、こっちはしばらく放っておいても大丈夫だろうと思う。

お母さんがまた言う。

「せっかくあんた、娘さんがこうして迎えに来てくれたんだもの。帰らなきゃ……帰ってやらなきゃ……あんた」独り言のようだ。

 私は自分の任務を思い出した。父に連絡を入れる約束だった。父は高崎の打ち上げからそのまま劇団の事務所に向かうことになっていた。落ち着いたら事務所に様子を知らせて欲しいと言われていたのだ。

「あの…お電話を借りてもいいですか?」


「ちょっと難航中」とだけ伝えた。父が何と言ったか…覚えていない。ただ、制作のYさんが電話を替わり

「いまからそっちへ行くから」と言ってくれたことのみを覚えている。

 母がまた私達の前に現われ、また私が「とにかく帰って欲しい」と頼む。また母が隣りの部屋に消え、ヒソヒソ声が聞える。また、母が出てきて……の繰り返しだった。気がつくと私は母の前に土下座をしてこう言っていた。

「とにかく一度帰って来てよ。お願いします。パパと話すだけでいいから、また、ここへ戻って来てもいいから、とにかく一度一緒に帰ってきてください。お願い」

 後ろで妹達が笑いを堪えているその姿を目の端に感じながら、そう繰り返した。

 Yさんが駆けつけてくれたのは夕方近くになった頃で、そのときも私達は同じことをくり返していたように思う。私が頼み、母が無言で隣りの部屋に消え、また、出てくると私が頼み…の繰り返し。

 どこでどう説得したのだったか、どのあたりから母が少しこちらに気持ちを寄せてくれ始めたのか、あるいはYさんが駆けつけてくれたことで母の気持ちに変化があったのか……思い出せない。

 記憶にあるのは、相変わらずうつむいたままの無言の母をYさんがタクシーに乗せている光景と、チラチラと振る雪と、私達を見送ってくれた男の母親の悲しそうな顔…いや、顔は思い出せない…ただ、私達に向けられた慈愛のようなもの…だけである。

 帰りは開通したばかりの東北新幹線に乗った。急なこともあり、指定席は満席だった。私達は自由席になんとか座席を確保した。しかし、並んでは取ることが出来ず、母と妹達はかろうじて並びで座り、Yさんと私はそれぞれ一人ずつ空いている席を探して座った。

 当時の東北新幹線は、まだ上野までしか通じてはおらず、終点上野には父が出迎えてくれることになっていた。

 一人座席に座ると、急に睡魔が襲ってきた。

相も変わらず母は無言で笑顔ひとつ見せないが、しかし、任務は遂行した。とにかく母を連れて帰って来たのだから。隣りは見知らぬ人だが、ホッとした私は遠慮しがちに目を閉じた。しばらくの間は私に出来ることはない。誰かに肩を叩かれて目を開けた。母だった。通路側の座席に席をみつけた私の傍らにいつのまにか母が立っていた。私が見上げると、

「あんたの思い通りになったと思ったら大間違いよ」

そう一言だけ言うとニコリともせずに自分の席へ戻って行った。

「なに? いまのはなに? どういう意味? 私の思い通りって、いったいどういうこと?」

 眠気はいっぺんに吹っ飛んだ。

「はあ? 何であんなことを言うのだろう? なぜ、私があんなことを母親に言われなくてはならないの?」

 どうにも気持ちが落ち着かなかった。上野駅までまた一睡も出来なかった。

 私ばかりではなく妹達にも笑顔を見せない無言の母を連れて上野駅を降りた。私は、新幹線の車内で母が捨て台詞のように言い放っていった一言が頭から離れなかった。連れて帰ってはきたけれど…どうもこれでおしまいとはいかなそうだ。

 改札には父の姿があった。父の写真はたくさん残っている。笑顔の父だ。若い父もいる。思い出そうとすれば、たくさんの父がいる。だけど、私は、上野駅の改札に立ち、心配そうに私達を見ていたあの父の姿を、生涯忘れることはないだろう。母は当然下を向いたままだ。妹達は嬉しそうに父に手を振っていた。私は一番後ろから歩いていた。父が私を見たとき、私は首を横に振った。

「連れて帰ってはきたけれど……ごめん」

 父はただ私のその無言の合図に黙って応えた。

 私はあのときの父の目をいまも忘れていない。忘れることが出来ない。