「パズル」PUZZLE 第5回「雪 2」  井上都


 自棄になってはいけないとつくづく思うのだ。どうなったって構わないと投げやりになってはいけない。崩れていこうとしている日常を食い止めるのは、おそらくほんのささいなこと。何事も起こらなければ当たり前にこなしていたようなことなのだ。朝昼晩と台所に立つことや、朝起きたら顔を洗い歯を磨くことや、夜は風呂に入りちゃんと布団で眠ることなのだ。

 1985年、昭和60年の12月の我が家は生活そのものが狂い始めていた。

 そんな中ではあったが父と母が作った劇団ではショーマストゴーオンの言葉通り、父が初めて作者のみならず演出をも兼ねた芝居「きらめく星座」の地方公演が続いていた。母が、その芝居の舞台監督と彼の生れたうんと北の街へ出奔したことは、何人かの限られた人達しか知らなかった。

 その北の街へ旅立つ前に、父と母と男の「涙の別れ劇場」が一応あったことは前回に書いたけれど、別れの儀式が終わった後も、なんとなくスッキリしないというか、これからどうなるの?というか、このまま父は涙にくれ母を恋しい恋しいと言いながら仕事をするわけ?母は大寒がりのくせに雪の深いところに住んで居酒屋なんかをやっていけるわけ?と、誰彼かまわず問い詰めたい気持ちでいっぱいであったが、そんなことはおくびにも出さず、出来るだけいままで通りに暮らしていこうと努めた。そう振りをしていた。心の中では、

ああ、やんなっちゃうなあと嘆きながら。

 そんな日々の中、ある夜もまだ早い時間だったが、私は父に呼ばれた。

「明日は「きらめく星座」の千穐楽だから俺は高崎に行かなくてはならん。作者として演出家として、それからいまは劇団の代表としてどうしても打ち上げに行かなきゃならない。そこで、君にお願いだが、あの北の街へママを迎えに行って来てはくれないか。このままでは俺は死んでしまう。死ぬしかない。頼む。ママを連れて帰ってきてくれ。」

無精ひげをはやした着た切り雀の父はそう言って私に頭を下げた。

「ええ?!なんで?なんであたしが行かなきゃいけないの?」と心の中で私ははそうぼやいた。が、

「うん……別にいいよ。」と、いつも通りに口は動く。

「いますぐに家を出れば、今夜の夜行に乗れば、そうすれば明日の朝には北の街に着くはずだ。すまん、頼む。」

「え?いまから?これから行くの?」

さすがにそう訊いた。

 父は首をうな垂れている。

「わかった。じゃあ、行ってくるね。」

「すまん。」

 ひぇー?

 急いで出掛ける用意をしなきゃと二階にある自分の部屋へ行こうと階段のところまで来ると、二人の妹が階段に腰掛けて私を待っていた。

「パパ、なんだって?」すぐ下の妹が言った。「うん……ママのこと迎えに行って来てって」

「行くの?」

「うん……だってさ、ママが帰って来ないと死ぬって言うんだもん。仕方ないよ。」

「じゃあ、一緒に行くよ」

「私も行く。」と末の妹も口を揃えた。

「ええ?遠いいよ。寒いしさ、それにこれから行くんだよ。眠れないよ。」

「いいよ。だってパパ死んじゃうんでしょ?」

「うーん、わかんないけど……そう言ってる。もしさ、パパがさ、死んじゃったらどうする?」

「私も死ぬ」

「私も」

 二人は当たり前のように私にそう答えた。


ひぇー!!ちょっと待ってよ。そんな困るじゃん。みんな死なれちゃ困るでしょう。そんな簡単に死なないでよ。

 心の中で私は大慌て。

「そうか……じゃあ、三人で行くか。ほんとにだいじょぶ?行く?」

 妹達と話す前までは、とりあえず父の希望通り迎えに行けば父も納得するだろうと、そう考えていた。たとえ母が帰って来なくても迎えに行ったのだから致し方ないと諦めてくれるだろうと思った。私の役目もとりあえずは果たしたことになる。しかし、真剣な表情で父が死ぬなら自分も死ぬという妹達の顔を見ていたら、これはなんとしても母に戻ってきてもらわなくてはならないと感じた。

しかし、あんな別れの儀式までして出て行ったのだ。そう簡単に母が戻ってきてくれるとは……思えなかった。困ったなあ、どうすればいいのだろう。どうすれば帰ってきてくれるだろう。上野までの電車に揺られながら私は思案に暮れた。妹達は真剣に悩むその中にも、こうして三人で迎えにいけばきっと帰ってくるとどこかでそうも信じているように、思えた。

とにかく連れて帰ってこよう。

 つり革にぶら下がるようにして私は一度伸びをし、座席に座っている妹達を見下ろした。

 とにかく連れて帰ってくるのだ。

 窓の外は夜の闇だ。窓ガラスに人が映っている。何日か前に、父を少しでも励まそうと、姉妹三人で父を映画のオールナイトに誘った。話題の映画「バックツーザフューチャー」だった。オールナイトにも関わらず、有楽町の映画館は混雑していて、4人並んでの席は空いていなかった。父を座らせた。妹達もなんとか並びの席に落ち着いた。私は一番後ろの通路から立って映画を観た。父と妹達の姿を上映中も確認しながら観る映画はちっとも頭に入ってこなかった。暗がりで目を凝らして見たあのときのうな垂れた父の姿。三度の飯より大好きな映画なのに父の目はスクリーンを通り抜けてもっと遠くの何かを悲しく見ていた。そのときの父が電車の窓ガラスに映っているように思えて私は目をつぶった。

 とにかく連れて帰ってくるのだ。