「パズル」PUZZLE 第4回「雪 1」  井上都


 母が「男と駆け落ちした」というには、かなり違った状況にあった。私からすれば、私から見ればであるけれど。

 確かに、妻の浮気現場を目撃した夫である父、また、母親のその現場をなぜか目にした娘の私ではあったが、あのマンションでの一件以後、そう劇的に事が進んだわけではなかったからだ。

 うろ覚えの記憶をたどりたどりすると、ある日の光景が目の前に浮かぶ。

 母と男がうな垂れている。二人は顔を上げることなく並んで座り、父に向かってひたすら頭を下げる。

 父は泣きながら、そう涙を流しながら、自分に頭を垂れる男に向かって、

「どうか、幸せにしてやってくれ」なんてことを言っている。母に対しても、

「幸せになるんだよ」と、繰り返している。

すぐ傍で私はそんな親達を、たまらなく白けた気持ちで眺めていた。いまの若者風に言えば、

「マジ??」

「なにこれ??」というようなものだ。

 これで終わりなの?これでいいの?私達はどうなるの?と思わないではなかったが、口を挟めるような様子ではまるでなかった。

 母と男は、男の故郷である北国に行き、もう東京には戻ってはこないとそう言った。二人で居酒屋でもやって静かに暮らすつもりだと、そんな風に聞いた。

「ふーん」。

 一緒に暮らしていた祖父母がどんな顔をしていたか、二人の妹がその場に居合わせたかどうか、まったく覚えていない。

 母は家庭を捨て、男は仕事を捨て、遠い寒いところで生きてゆく覚悟を決めたということらしい。

夫である父にその許しを乞う別れの儀式が目の前で繰り広げられている。

「ふーん」。


 母親というのは、たとえそこに肉体がなくてもかけがえのないもので、家庭においては光であるのだ。明るい性格だからとか、いつも笑っているからとかそんな理由ではなく、そこに母親の存在を感じさせる何かがあるというだけで家の中は明るくなる。

 実際はそこにいなくても、居るときのささいなことが、家族を励ましてくれている。

 母がいなくなった家は瞬く間に冷えていった。

 父は夜になると睡眠薬を飲んだ。あの頃、いつどうやって父が仕事をしていたのか、思い出せない。

 母がいなくなっても私は夜食を持って行った。前からそうしているように午前12時を過ぎると、見るからに不味そうな焼き飯や、牛丼を持って父の様子を見に行った。父はぼんやり椅子に座っているが、私の気配がすると途端に机の上に置いてある睡眠薬のビンを手に

「眠らせてくれ、眠らせてくれ」と泣き出した。

 笑い出したいような気持を抑えて、

「やめたほうがいいよ、薬なんて飲んだら体にわるいから」と、父の手から薬ビンを取り上げた。まるでテレビドラマのようだった。

「死なせてくれ」と懇願する父親と、それを必死で止める娘。

 どんなに辛いことなのかを多分わかって欲しかったのだろうと思う。いまはそう思えるが、当時はひたすらくたびれていた。そして、可笑しくもあった。

 どうしたらいいのかわからないから、どうしようもなかった。

 ある夜、すぐ下の妹と父の書斎に行った。

「パパ、大丈夫?」と入っていくと、父はベルトを桟に引っかけて首を吊るかのような動作をした。

「パパ、やめて」と、妹と二人、父の腰にしがみついた。父からは自分たちの顔が見えないようにお互いに目を合わせ、笑いを堪えた。

「そんなことしなくてもいいよ、やめて」。

 父にとことん付き合ってあげればよかったと思う。

「ほんとに死ぬ気なら、人が見てないところでやるよねえ」と、そんな陰口をきくほど、

私はどうでもよくなっていた。いくところまでいってしまえばいい、もうどうなったって構いはしない。そんなやけっぱちな空気が私の中には充満していた。