「パズル」PUZZLE 第3回「思い込み」  井上都


 サイレンの音が猛烈に響く中を、この世の終わりといった様子の父を助手席に乗せ私は車を運転して家へ帰った。

 妻の浮気現場に乗り込んだ夫であったのだから、本来はどうにも納得出来ないはずで、その場から梃子でも動かないぞと居座ってもいいくらいで、いますぐ別れろと詰め寄ってもなんら不思議ではないのだが、私が叫んだのを機に、とにかくこんなところには1秒だって居られないと、素っ裸の母とうな垂れる男を残したまま、父は部屋を出てきた。私も後に続いた。

 

 それまで私が馴染んできた見知っていた父と母ならば、まちがいなく取っ組み合いの大騒動になっていただろう局面だった。だがそれも、私が娘として知っていると思い込んでいただけのことで、二十数年間を夫婦として過ごしてきた父と母からしたら、もう取っ組み合いをする理由がなかったのかもしれないと、いま私は思う。

 後年、この日のことを何回も思い起こして私は暮らしその度に、あのとき母に貸した雨傘を目にしても、私がそのことを父に言わなかったらよかった、そうすれば父は諦めて帰ってきたのではと考えた。疑いは消えなかっただろうが、妻が自分以外の男と一緒にいるそのことは見ないですんだ。見ると疑うでは大違いだ。しかし、あのときの私にはそんな機転は利かなかったし、私だって驚いたのだ。ましてや母がなぜ父以外の人とそのような関係を持つことになったのかということに思いが及ぶはずはなかった。

 他に好きな人が出来ました、その人と男女の関係になりました、いまでは長年連れ添った人よりも、その人のことをより好いておりますなんて、そんな単純なことではないということが、あのときの私にはまったく理解出来なかったのだ。

 

 そのときから、父と母が正式に離婚するまでには、7ヵ月間の月日がある。この期間の私の記憶はあてにならない。印象的な場面がいくつか強く残っているが、それも日付が曖昧で、どの場面が先で次がこれでと整理されたものではない。ただ、浮気現場目撃を共有したこと、私自身がまったく幼くて浮気をした母がいけないという母に対して批判めいた思いを持っていたこと、さらにそのとき私は父の夜食の係だったこと、これらがあいまって、あの夜以降、父の話し相手が母から私へと移行したことは確かなことだった。まあ、それは母があの日以来、ほとんど家にはいなかったからでもあるのだが。

 母と離婚したとき父はいまの私とほぼ同じ年齢だ。だからこそ感じるのは、妻の気持ちが自分から離れたことを受け入れることには相当な苦しみ嫉妬があっただろうということだ。とりわけ父と母は、夫婦という面ももちろんあったが、作家・井上ひさしを世に認めさせるために切磋琢磨してきた同志という繋がりも強かった。年月があったのだ。取っ組み合いながらも力を合わせてここまできた年月が間違いなくあったのだ。おそらく父には、この先の母との生活の青写真があっただろうと思う。だからこそ、それを踏みにじられたという思いも・・・いや、これも、私の、娘としての思い込みであって、父が何をどのように感じ考えていたのかは、わからないと言うべきなのかもしれないが。

 

 それでも、うな垂れて助手席に座り一言も発せず、家に着いて飲めないウィスキーなどをあおり、眠れないからと睡眠薬を飲み砕いていたあの父は、私がこの目で見た紛れもない父の姿である。

 「人間のクズ」と残した父、残された私のある種の信頼関係が、浅草橋の駅に火炎瓶が投げ込まれたあの朝父に刻まれたというのは私の思い込みではないだろうと推察する。

 父が夫として受けた確信は、私が娘として受けた衝撃とは、まるで違うものだ。それはいまの私は気づいているが、あのときの私にはわからなかったし、父もまた、それを考える余裕がなかったに違いない。

 さて、話は一気に、一度先へ飛んでしまうが、父の死後、父の生れ故郷である山形県川西町羽前小松で父と遊び友達だったという方々に招かれた宴でのこと。

 店の名は「樽平」。ここは、父が直木賞の選考日に編集者の皆さんと受賞の報せを待った店であるそうな。

 父の死を悼んで集まってくださった方々は川西町で父と同窓であったという。幼き日の父を知る皆さんではあるが、幼い日の父はどうやらどちらかというと印象の薄い子供だったようだった。それでも男の子同士は、野球を通じての思い出があると話を聞かせてくれた。


 「ひさしくんはなあ、口は達者でなあ、野球の知識はよおく喋っていたなあ。だけども、野球をやるとそんなにうまくなくてなあ、いつも頭かいていたっけなあ」。

 それはいかにも父らしい話だった。車の免許を取りに何度も教習所には行くのだが、いつも理屈ばかりこねて先生と喧嘩になり毎回やめてしまっていたらしい。車がどうやって動くかということは徹底的に調べてわかっているのだ、俺のほうが詳しいのにけしからんと母にはそう言って威張っていたそうだ。とうとう免許を父は取れなかった。そんなことを思い出しておかしかった。

 ある人がこう言った。

「ひさしくんはなあ、いつのまにか居なくなっていたんだなあ。ある日なあ、いつのまにか居なくなっていたんだなあ」。

 

 生まれた町に15才までいたのである。野球を一緒にしたりする遊び友達もいたのである。そんなに親しくはなかったにしろ、さようならとか、引っ越すのだとか、何かしら誰かには言いそうなものだが、そういう言葉を聞いた人はいないようだった。

 そのとき私の頭に浮かんだのは、父は、誰にも言わずに、言えないまま故郷を出たのではなかったのかというなんとも父を不憫に感じる気持ちだった。

 父は、おばあさんにはとても可愛がられていたと母から聞いたことがある。おばあさんは父の父の母であり、祖母には姑になる。おばあさんは長男である祖父を病気で早くに亡くし、孫である父を、長男の次男坊である父をとりわけ可愛がっていたらしい。しかし、祖母は姑とうまくやってはいかれずに、また、好きな男も出来て、川西町から一関へと移った。それが父が15才の頃のことだ。

 

 夜逃げとまではいかなかったにしろ、駅までの暗い一本道を、いまでも暗い淋しい一本道を、祖母と伯父と父と、幼い叔父とが歩いている姿までが浮かんできた。

 叔父はきっと祖母に手を引かれていただろうし、伯父は長男として祖母よりも前を歩いていただろう。次男の父は・・ボロボロだけど一張羅の服を着て風呂敷包みなどを両手に抱えて、一番後を、何度も来た道を振り返りながらトボトボとついて歩いたのではないだろうか・・と思い涙が出そうになった。私の想像ではあるけれども、おそらくそうに違いないと半ば確信して、その一言を聞いていた。

 その感傷が父のメモから「人間のクズ」を見つけたときに甦った。父に言わせたこの言葉を私が自ら消すためには、やはり父の軌跡を私なりに辿ってみなくてはならないのだ。所詮はわからないことなのだ。父は蘇らない。それは充分に承知しているが、私なりに想像してみなくてはどうにもならないと思った。