「パズル」PUZZLE 第2回 雨傘  井上都


「座長、雨が降ってますよ」

出掛けようとしていた母の背に誰かがそう言った。母が座長になり父を座付作者として抱えるという形で旗揚げをした劇団も2年目に入っていた。

 私は高校を卒業した後、半年ほど看護助手として病院に勤めたが、人間関係をうまく作ることが出来なくて挫折。「君はずっと家にいてもいいんだよ」という父の甘い言葉に縋(すが)って、仕事もせずにフラフラしていた。それでは本人のためにならないという話になったのかどうか知らないが、暇をしているならば、劇団の仕事で忙しくなった母の代わりに父の面倒をみろということになり、父の運転手兼話し相手のようなことをして日々を過ごすようになっていた。

 1985年11月28日のあの日は、昼間劇団の事務所でなにか人手のいる作業があり、その手伝いに駆り出されていたのだろうと思う。朝、車で出勤していた母を追うように午後から私も劇団の事務所に出て来ていた。


「あら、そう?」

母は疲れた顔でそう言い、

「これ、借りるわね」と傘立てから傘を一本抜き出した。

「あっ、それ私の。買ったばっかりなんだからどこかに忘れて来ないでよ」

「わかってるわよ。それより、パパのこと頼んだわよ。夜食を買って帰るの忘れないで。車は置いて行くから、あんた、乗って帰ってね」母は振り返りもせず、ドアを開けて出掛けて行った。

 そのときの自分の気持ちを三〇年後の今もよく覚えている。

「やれやれ。きっとママは傘をどこかに忘れてくるに違いない。気に入っていたのになあ。まあ、仕方ないか……。それに、車で帰らなきゃいけないんなら、みんなとビール飲めないじゃん。つまんないけど、まあ、仕方ないかあ」と、情けないくらい暢気なことを考えていた。

 当時、劇団で働いてくれていたどの人も私のことを本当に可愛がってくれた。お兄さん、お姉さんのように感じられた。あれこれと世話をしてくれ気を配ってくれるその人達の存在が嬉しくて、なんとも居心地が良くて、あの頃は事務所に行くのが楽しくて仕方がなかった。皆さんからしたら毎日仕事が忙しくて、私のお守りなどにかまけている時間はなかったはずだが、そんな素振りもみせずに、必ず仕事終わりの一杯に私のことを誘ってくれた。若かった。本当に若くて、何も知らなくて、なにもかもが初めての体験で、誰も彼もが素敵に思えた。その仲間に入れたことが嬉しくてたまらなかった。

 その日も、作業が終わると皆でお疲れさまのひとときを過ごし、私は母に言われた通りに、母が乗ってきた車に乗って帰路についた。途中で父の夜食にと、吉野家の牛丼を買った。いつも通りの一日の終わりのはずだった。


「パパ、ただいま。牛丼買ってきたよ。いま食べる? それとも、後にする?」

 家に着くと、牛丼を手にまっすぐ父の書斎に行った。あの頃、父は、母が衣裳部屋と呼んでいた小さな部屋を書斎として使っていた。いまから思い返せば父が最初に自分で建てたその大きな家では、父の書斎が一か所に落ち着くということがなかった。あっちに移り、こっちに移り、また元に戻ったりしていた。家は生き物だ。不思議な生き物だ。人の気づかぬ物凄い力を秘めている。恐ろしい生き物。

 いつもならば父は背を丸め机に置いた原稿用紙に眼鏡をうんと近づけて、一文字一文字、字を埋めていて、

「そこに置いといて」とか「いま食うから下に行くよ」とか言うのだが、あのときは、煙草を吸いながら宙をぼんやりと見て、

「おかしいんだよ。おかしいんだよ。いないんだよ。どこにもいないんだよ。おかしいんだよ。絶対におかしいんだよ」と、私に向かって言うのでもなく、ただそう繰り返した。

「おかしいって何が? 何がおかしいの? どうしたの?」

「ママが借りてるマンションがどこにあるか君は知ってる?」

「うん、知ってるよ。この前、送っていったから」

「どこ?」

「事務所の近くだよ。そんなに遠くない」

「そこに乗せてってくれないかな」

「えっ? いまから?」

「そう、いまから」

 助手席に父を乗せて私はついさっき走った道をまた走っていた。父は無言で顔を窓の外に向けたままだ。時折、独り言のように言う。

「おかしいのはわかっているんだ。俺にはわかる。おかしいってことが俺にはわかる」

 何か返そうかと思ったが、心ここにあらずの様子の父に何か言うのも憚(はばか)られた。

「ねえ、パパ、お腹空いてない? 大丈夫?」

 つまらないその一言を何度か口にした。父は、小さく頷くばかり。


 それは小さなマンションだった。夜遅くまでの打ち合わせがあったときなどに母が家へ帰ってくるよりもそこで寝てしまえば次の日が楽だと借りたマンションだった。

 ベルを押した。二度三度とベルを押した。私がではなく、父が何度もベルを押した。

「誰もいないみたいだね」

それでも父がベルを押した。ドアを叩いた。鉄の音が響く。

「開けろ。居るのはわかっているんだぞ。開けろ」

「帰ろうよ」と言えなくて、私は、新聞受けを手で押して中を覗き込んだ。薄暗くて何も見えない。なおも目を凝らした。三和土の端に私の雨傘が立てかけてあるのが見えた。

 あたりはうっすらと明るくなり始めていた。

「ああ、パパ、ママ中にいるわ。私が貸した傘がある。ママに貸した傘が置いてあるもん」

 父は階段を駆け下りていき、すぐ目の前にあった公衆電話ボックスに入り手帳に書きつけてあったその部屋の番号を回した。私も受話器に片耳を押し当てた。一〇分、十五分……どのくらい経ったのだろうか。

「いま、開けるから」

 そう母の声がした。

 父が受話器を置き、その夜初めて私を見た。私は娘だ。役割をこなさなければならない。

 母がドアを開け、父が中に入り、私も後に続いた。小さな部屋に小さなテーブルが置いてあった。素っ裸のまま母が椅子に座り煙草に火をつけた。下着姿の男が部屋の隅でうなだれていた。父は仁王立ちになり母を睨みつけていた。私は二人の娘だ。役割を果たさなくてはならない。

「わーっ」私は叫び泣いた。

「おまえは子供の前でなんて格好だ。この子が可哀想だと思わないのか」

 父の怒鳴る声が耳に聞こえた。その声に被さるように消防車のサイレンが大きく鳴っていた。

 あの場面で素っ裸のまま悪びれもせず煙草をふかしてしまう母を、いまの私は、母らしいと思える。父は父でどんなに混乱していたのだろうかと思い、いまの私は、父の肩を叩いて気にするなと言ってあげたいと思う。が、あのときは、そうは思えず、出来もしなかった。

 父はあの日に「この子は自分の悔しさを目の当たりにした、してくれた」と私のことをいじらしく感じたのではあるまいか。きっと、自分のことをわかってくれていると、そう感じたにちがいないと……思うのだ。


 なぜ、その日が11月28日だったと私が覚えていられるかというと、その日、正確には1985年11月29日早朝、浅草橋駅に火炎瓶が投げられて駅が燃えていたからなのである。