「パズル」PUZZLE 第15回「声を聞く」  井上都


 父の声が聞えたわけではない。

 聞こうと耳をそばだてても、私には聞き取ることが出来ないようだ。まだ、しばらく時間がかかりそうだ。

「あなたのお父様は公人ですよ」と、父の死後、父親である父の逝き方に批判めいたことを口走ったときに、そう諭された。あの頃は、ただただ最期の別れも叶わなかった自分の現実に口惜しいばかりのときだったから、

「公人だから? それが何だって言うんですか? 公人であることよりも大事なことがあったはずではないのですか?」なんて食って掛かってしまったけれど、確かに父は公人としてずいぶんたくさんのものを残した。書いた作品はもちろんのこと、公に発言した言葉も数多い。作家としてはとても大きな仕事を、大勢の人達に助けられながら遺した。

「立派なお父様ねえ」と言われれば、私も嬉しい。仕事しかしてこなかったような人だもの。その仕事を評価してもらえることがおそらくは一番の望みでもあったのだろう。だけど、淋しい。父が公に残した言葉に価値があると言われれば言われるほど、私の中で嬉しさを上回る淋しさが募る。贅沢かな、欲張りかな、身のほど知らずかな、親不孝者かな、だけれど、私は「人間のクズ」って書かれちゃったからな……と、50過ぎた中年女が淋しがっている。

 しかし、その反面、父の書いた戯曲の台詞を、なにかにつけ思い出す私もいる。

「みーくん、みーくん、ここだけの話だけどね……」と、子供のように「面白い話をきかせてあげるから、ちょっと来てよ」と言わんばかりに満面の笑みを浮かべて手招きをする父もいる。

「漱石の言葉だけれどね、人生は片付かないんだよ」

 それを漱石の『道草』で見つけたときは本当に嬉しかった。ほんとうにその通り、人生は片付かない。どこまでいっても片付かない。おそらく誰もが片付かないまま死んでいかなきゃならないのだろうと恐れおののいた。

「人間のクズもね、片付きそうもないや」


 私はよく人から言われる。

「あなたってお父さんっ子でしょ?」と。

 傍から見ればそう見えるのだろうなあと思い、

「そうでもないですよ。私は、父親っ子でも母親っ子でもない、なんていうか、宙ぶらりんっ子とでもいうのか、父にも母にもどっちにもつかない、長女だからかな、父と母にとっては子供というより話し相手みたいな感じだったんじゃないかなあ」と、長々と説明を試みたりする。

 父は、私のすぐ下の妹をとても可愛がっていた。母は末の妹をそれこそ舐めるように可愛がった。私は、その様子を眺めてホッと安堵するそういう子供だった。二組の、父と子、そして母と子が仲良くしている。ということは、私は私のことを考えても構わないのだな・・・と思っていたからだ。長女に生まれた人は多かれ少なかれそういうところがあるのではないかしら。自分のことはちょっと置いておき、まず、親のこと、次は妹のこと、みんなが落ち着いたところで、ようやく私のことが出来るというような、誰が強要しているわけではなくて、そんなことを口にしたら

「頼んでないよ。好きにしたらいいじゃない。押し付けがましいことを言わないで」と集中攻撃をくらってしまうだろうが、それが自分の役割だと、思い込んでいるようなところがあるのではないかと思う。

  

 父が亡くなる2年程前まえのことだ。父っ子の妹が、介護2級の資格を取った。末の妹の激励を受けながら、学校嫌いの彼女が精一杯に頑張った。訪問介護の仕事を見つけてしばらく働いていた。父は、そのことを大層喜んでいた。二十歳そこそこで出産し、子育て、そして離婚を経験した妹が、ようやく自活の道を歩み出した……と、父はそう考えたのだろう。

 この妹は幼い頃から少々変わった子供だった。父はその変わっているところを愛でた。

 動物好きで犬でも猫でもなんでも拾ってきた。ハムスターを洋服の袖の中に入れ隠れて飼っていたこともあった。母に叱られると、父の書斎の机の後ろのカーテンの陰に隠れて何日もそこで暮らしたりしていた。おとなしいと言われて育った私とは正反対で、本当に言うことをきかない一度イヤと言ったら梃子でも動かない手を焼く子だと言われていた。

 父はいつもそんな妹を庇っていた。

 父と母は、私には家事手伝いをさせながらそのうち見合いでもさせて結婚とそんなふうに青写真を描いていたようだが、この妹には、演劇の道へと進ませようとした。こういう変わったお転婆はそのほうが自分を開花させられると考えたようだ。

 親は子供を解っていないようでちゃんと解ってもいるが、分かっているようでまったく分かっていなかったりもする。

 私は見合いして結婚なんて絶対に嫌だったし、妹は、私も最近になって本人に聞いて驚いたが、一番なりたかったのは「お母さん」だったのだそうだ。

 父に散々甘やかされて育った……と、そう言われて妹は大きくなったから、おそらく父は、この自分が一番可愛がった妹に父親としての責任を、ある意味、負い目を感じていたのかも知れない。というのも、父が肺癌だと判ってから亡くなるまで、この妹にも父は会おうとしなかったからだ。

 私には会わない、会いたくない理由が父にはあった。私が自分を裏切ったと思っていたからだ。とんでもない誤解であるが、それは私の言い分で、父にしてみれば「許せないこと」が「自分の作品を公演中止に追い込もうとした」という理由があった。しかし、妹には、何ら会いたくない理由がない。そう私は思った。あんなに父のことが大好きで、父が肺癌だと知った日から、肉断ちまでして回復を祈っている妹にどうして会ってあげられないのだろう……。

 父が死ぬ日の朝、妹から電話がかかってきた。父は夜の10時22分に死んだから、その時間はまだ生きていた。それは、次の日に父が死んだと聞いて私にはわかったことで、妹の電話に出たときには、父が今わの際の際、瀕死の状態にあることなど思いもしていなかった。