「パズル」PUZZLE 第14回「駅にて」 井上都
確かにほんの少し小高く盛り上がったところにホームらしきものが見える。
私は今年16才になる息子と一緒に、父の生れ故郷である山形県・東置賜郡川西町にあるフレンドリープラザの裏出口から表へ出て、数百メートル先の米坂線・上小松駅を確認し歩き出した。
4月三週目の土日二日間にわたってこの町で開かれた市民講座「生活者大学校」と、「井上ひさし・吉里吉里忌」に参加するために、私は5年ぶりにこの町を訪れていたのだ。
まだ会場では第二部の文化講演会の最中であったが、前夜、少々羽目を外して飲み過ぎてしまった私は酷い二日酔いで、予定していた新幹線を1本早めて帰ろうと考え、重い荷物を引き引き会場を後にした。
私の旅に同行することにも、また二日酔いにも慣れさせられている息子は「やれやれ」といった表情で隣りを歩いていた。
「駅どこ?」
「あれ。少し高くなっているのが見えるでしょ?あれが駅みたい」
「あれ?ちっちえー」
息子が驚くのも無理はない。改札もなければ人もいない。切符を買う販売機も見えない。ただ、線路が2本通っているだけだもの。そこに小さなホームがポツンとあるだけだもの。
遮る建物が何もないから、私達が歩いている道から駅は丸見えである。私達と駅との間に広場があって、そこで17,8才の少年3人が傍らに自転車を停め、しゃがんで煙草を吸っていた。地面にはコカ・コーラのペットボトルが置いてある。
「若者たちがたむろしているよ。賑やかなところはここからはずいぶん遠いから、ここでおしゃべりしているんだね」
息子とそう大して年の違わないであろう少年たちの前を過ぎれば、もう駅である。
上小松から米沢までの電車は1時間に1本しか通らない。時計を見ると到着時刻まで小一時間ある。
「なんにもないけど、ここで待ってよう」
私達はホームに備え付けられた長い椅子に腰をおろし電車を待つことにした。
「ほんとになんにもないねえ」
線路を挟んでむこうのホームは新潟方面に行く電車が来るのだそうだ。向こうのホームには小さな駅舎がある。もしかしたらそこで切符を買うのかもしれない、ジュースの自動販売機くらいあるかもわからない。スマートフォンをいじって時間を潰している息子に荷物を預け、私は向こう側への渡り通路へと階段を上って行った。
確かにそこには若い駅員がいて、小窓を開けて米沢までの片道切符を買うことができた。
人が4人掛ければもう一杯というくらい短いベンチが置いてあるきりの待合室に、父親と息子と娘の3人が体をくっつけて座っており、私が自動販売機を探して駅舎から通りへ出るのをジロリと睨んで見ていた。
駅舎の前にまっすぐに細い道が一本、人は一人も見えない。車も通っていない。店もない。いや、やっているのかどうかもわからない蕎麦屋が1軒、それからタクシーの配送会社の看板が見えた。私が探していた自動販売機が二台並んでいるのをみつけ歩き出した。
日曜日の夕方なのに、ほんとうに人がいないんだなあ……。いまもこんなに静かなのだから、父が生まれたとき、子供の頃、それから15才でこの町を出たときは、どれほど静かだったのだろう。いや、もしかしたら、この淋しい一本道が、父が言っていた駅前の商店街かも知れない。昔の方が賑やかできっと人通りもあったに違いない。もちろん、人通りと言ったって、ささやかなものだったろうとは思うけれど。
父の父、私の祖父は薬剤師で薬屋兼雑貨屋をこの町で営んでいたそうである。この町で生まれて、東京の薬科大学に通っている時に祖母と会い、薬剤師となって故郷へ戻ってきた。小松滋というペンネームで小説を書いていたそうだ。脊椎カリエスに罹り、35才で亡くなったから、小説家にはなれなかった。
祖母は、小田原生まれの陽気な文学少女だったから、この東北の小さな町でおとなしく暮らしてゆくのはなにかと大変だったようだ。
祖母は終生、井上の籍に入れてもらうことができなかったと恨んでいたと聞いたが、最近、祖母は祖父とこの町に駆け落ちしてくる前、すでに結婚した人妻であったと、だから、籍を入れることはそもそも祖母自身、出来なかったのだと聞いた。流行歌ではないが「人生いろいろ」である。
50を過ぎて私も、人生は点ではなく、やはり線だと、一本の道のごときものだと感じるようになった。
「あのとき、あのとき……」と、過ぎた日を思い起こすにつけ、懐かしさと後悔と、恋しさと淋しさと、それからしみじみと切ないあたたかな気持ちを心に覚える。
私に繋がる何人もの人達の人生、どの人生もみな同じく尊いものであることを、理屈ではなく、その良し悪し、長短ではなしに、本能で感じ取れる。
若いときには……わからなかったなあ。
平成の現在を生きる私が一人、昭和初期のこの町にふと紛れ込んでしまったかのような…気持ち。その辺から、ボロの学生服を着た小学生の父が、遊び仲間の友達といまにも飛び出してきそうな気がして、販売機で買ったジュース二本を手にしたまま、私は目を凝らして誰もいない道を眺めた。
五年前、父が死んだ直後に父の遊び仲間だった人から聞いた一言が、やはり胸にジンジンと突き上げてくる。
「ひさしくんはなあ、いつのまにかいなくなっていたんだなあ」
生きていれば今年80才の父が、この町を出たのは15才のときだから、65年前だ。
駅へとまっすぐに伸びているこの道を、父はいつ何時頃、歩いてきてここから電車に乗ったのだろう。
知りたいことは増えてゆくばかりである。