「パズル」PUZZLE 第13回「遺留分減殺請求」  井上都


 だいたいが「遺留分」などという言葉をそれまで私も妹も聞いたことがなかった。それはいったい何なのか…? まったく判らなかった。しかし、私達は法定相続人だから、遺言、私達の場合は遺言公正証書に不服があった場合、遺産の相続を請求できると法律で決まっていると教えられた。

「あきらかに貰い過ぎてる人がいるわけです」と、私達の代理人になってくれた弁護士は言った。

「確かに。貰い過ぎてるよねえ」

 他人事のように、ほとんど笑いながら頷き合う、その程度の認識しか持ち合わせていなかった。

 父親の遺した財産で食べていこうという望みがあったわけではない。働かなくても生活できる方法を探していたわけでもない。それでも、「譲られなかった、遺してくれなかった」という事実がなんとも気持ちを沈ませていた。

 こういうことは事細かに書かなくてはいけない。それが出来ないならば、書いたりするべきではない。父は死んでもういないが、私も含めて、法定相続人である遺族五人は生きているから。それぞれの生活、立場、状況、父との関係性を持ちながら、生きているからだ。資料的なもの、五年前にやり取りした書類はすべて残っている。が、私には、記憶がない。書類を読めば、「確かにこんなことがあった」と思い出すことは出来るが、正直、この三年ばかりは、その書類そのものを見直していないのだ。また、父に「人間のクズ」と書き残された自分を救いたいばかりに書き始めたこのとりとめのない文章も、誰かを糾弾したい、善悪の区別をつけたい、と思って始めたことではない。つまるところ、遺留分減殺請求の詳細については、先に書くことと許していただいて、結論だけを記しておこうと思う。

 私と妹の代理人となった弁護士は、「交渉するよりも一気に調停に持っていきましょう」と言った。私も「調停でさっさと結着をつけたほうがいい」と考えた。恐ろしくも、調停の意味さえ知らず、調べようともせず、ただ、相手とこちらとの二者間のやりとりではなく、第三者、家庭裁判所が間に入って、文字通り調停してくれるのならば、そのほうがいいと、簡単にそう思っていた。

「遺留分はない」というのが、むこうの弁護士から通達されたことだった。私と妹に、遺産として渡るべきものはすべて渡してあるので、これ以上は何もないと。ただ、揉めたりはしたくないので、調整金を支払うつもりはある。それで承服できないならば裁判でもなんでも起こしてくださいと言われた。

 一番の問題は、父の著作権の価値であった。私達の要求した「遺留分」、父の遺したもののほとんどが著作権に占められていた。「遺留分」を請求するということは、著作権を、作品の価値をお金に換算する、評価額を裁判で争うということになる。そうなれば裁判ははたして何年かかるかわからないと。ヘタをしたら、私が生きている間に解決できないくらい、そのくらい果てしない闘いになる。それほど難しいことなのだと、当時、私の代理人であった弁護士からそう言われた。それでも裁判をと望むのならば、他の弁護士を探して欲しいとも言われてしまった。

 五年前、いまも同じくだが、私はお金がまったくなかった。毎月の家賃の支払いさえ滞り、保証人である母に頼ってなんとか追い出されずに済んでいるというような状況であった。いまであれば、そのように困窮した状況であれ、何かしらの方策があるのではないかと、慌てて一つの提示された結論に飛びつかなくてもよいと思うことが出来るが、五年前の私には、「お金がない」ということ以外の何も頭に浮かばなかった。

 私が持っていた劇団の株を父が買い取っての退職と前回書いたが、この株の買い取り分が、私に提示された調整金からは減額されていた。父と私とのいうなれば争いの時に代理人であった弁護士は、「これは生前贈与ではない」と、きちんと法的に交渉してくれたにも関わらず、その分が、「すでに渡してある」と処理されたことに私は憤慨して、代理人である弁護士に、そこをつめて交渉して欲しいと訴えた。だがしかし、「不服を唱えたら、いま提示されている金額さえ取り消される可能性がある」と、弁護士は交渉を渋った。

 当時の私には選択肢がなかった。なかったと言わねばならぬほど、何もわからなかった。自分で考えてなんとか抵抗しようという気持ちがなかった。いますぐにお金が必要だと考えた。悔しいけれど、どうにも出来ない。私にはお金がないのだもの……。

 調整金1千万を受け取ることに同意し調停は終わった。1千万を、まず500万、それからあと残りの金額は月々の分割でという申し出だった。ここでも私は分割なんて困る、いっぺんにくれるように交渉して欲しいと弁護士に要求した。これには、渋々ながら弁護士は応えてくれ、分割の回数を半分に減らすとそこまでやってはくれた。

 父が死んでそれは一年後のことだった。それから丸三年、私は働くこともなく、その調整金で生活を維持させていた。