「パズル」PUZZLE 第12回「四月」  井上都


 四月九日は父の祥月命日である。

 五年前のその日に父は死んだ。入院していた茅ヶ崎の病院から救急車で鎌倉の自宅まで送り届けてもらったその日の夜に亡くなった。本当に、死ぬために帰って来たように。

 死に際に間に合わずとも、後々、傍で看取った誰かから、

「あのときはね……」と、娘であるならば父親の最期の様子を聞けるだろうと思うが、私にはそれが叶わなかった。父がすでに死んだその後で

「昨日、死んだって」とすぐ下の妹から聞かされた。普通ならとにもかくにも駆けつけるだろう。娘ならば死顔をこの目で見て確かめたいと思うはずだが、私は行かなかった。あれから五年が経って、その不思議に愕然とするが、もう遅い。

 父は死の二年前に公正証書遺言を作成している。公正証書というのは遺言状よりも確実なのだそうだ。公証役場で公証人が作成するため、自筆遺言状よりも確実なものなのだそうだ。公証役場に保管されているから万一失くしてしまっても安心なのだそうだ。

 

 劇団にまだ勤めていた頃、思い返せば、父が公正証書を作成する少し前のこと、取引のある大手銀行の信託銀行から父宛に電話がかかってきた。父は自宅の書斎にいて、用事がなければ劇団の事務所には来ない。私に回された電話を受けると、

「遺言状の作成をお任せいただけないか」との用件だった。

「弁護士が入って遺言状を作りますと、会社にとっては損です。私共にお任せくだされば、会社の皆様にとって有利な遺言状を作ることが出来ます」と、これは私に向けてのお言葉。

父が顧問弁護士に頼んで遺言状を作ってしまう前に、信託銀行で遺言状を作ってもらうように勧めて欲しいらしい。私はいまもそうだが、当時はいまよりもそういうことに無知であった。苦手意識も強かった。会社にとって有利な遺言とはどんな遺言状なのか……考えが追いつかなかった。

「はあ、そうですか…。私にはこたえられないので父に伝えておきます」

そう言って電話を切った。すぐさま、鎌倉の自宅に電話をかけた。父の妻が出た。私が信託銀行からの伝言をかいつまんで伝えると、

「それは本人の問題だからひさしさんに言っておく」と一言で話は終わってしまった。

 そんなもんなのかあ…。遺言状を作るということは、父が死んだ後のことを考えるということではないかと、私の心は波打って、電話を切ったあと、即座に連絡をしたのだが肩透かし。少々、気落ちしながらも私はすぐに遺言状のことを忘れてしまった。そして、そのすぐ後に、父が公正証書を作っていたことなどまったく知らなかった。

 父が死んだ四月のうちに私と妹は、父の顧問弁護士に呼ばれた。手帳を見ると二〇日に記載がある。

 そこでその公正証書についての説明を受けた。

 私と二人の妹に父が遺したものは、劇団が父から借りて事務所として使用している父名義のマンションだけだった。2000万ほどの預金は、父が「まず、劇団の借金を返せるだけ返して欲しい」と言い残したとのことで、そのとき劇団が抱えていた借金の一部の返済に充てられた。その代わり、法定相続人である妻と4人の子供達に、むこう三年間、月に八万円をこまつ座から返済すると言われた。

 それ以外のものはすべて妻に遺す。妻が死亡した後は、息子に遺すと書かれていた。息子というのは、再婚後に父が授かった一人息子のことだ。私からすれば腹違いの弟ということになる。

 それまで「父が死んだら財産が欲しい、印税が欲しい」などと思ったことはなかったから自分でも驚いたが、私は非常に腹立たしく感じた。いまどきの表現をすれば

「はあ?!なにそれ?!」という感じだった。

 

父の死の前年から、私は父に絶縁されていた。劇団のお金を使い込んだだの、男を作ってその男に盲従し劇団を我がものにしようと企んだだの、新作を公演中止にすると宣言しただのと、それこそ唖然呆然、開いた口がふさがらない言いがかりであったから、私は抵抗した。親であっても納得してなるものかと意地になった。父の顧問弁護士から絶縁状が送られてきたから、クソーと思い、自分も弁護士を探した。確かに私は誉められたものじゃなかった。いつも給料を使い果たしてしまい前借りばかりして、それを賞与で返済するということをくり返していた。男の人に優しくされるとすぐにその人を好きになり、好きになるたびに男女のつき合いになり、あの人もこの人も好きと飲み歩いてばかりもいた。挙句に、父からすれば、その挙句にだろうが、結婚もしないで子供を産んだ。お金のことも男関係のことも、批判されても致し方ないと、使い込んだ、男と共謀したと、そんなふうに誤解をされる種は蒔いたかもしれない。

 品行方正であり、きちんきちんと貯金もし、従って、予算管理も「任せておけば心配ない」という自分だったら……使い込んだ、男のいいなりになったなどという発想じたいが私には結びつかなかったにちがいない。ただ、新作の公演を中止すると宣言したということに関してだけは、私は、絶対に受け入れることは出来ないと、思った。なぜならば、私の劇団での二十四年間は、新作との格闘であったと言えなくもなかったから。

 座付作者であった父はとにかく執筆にかかるまでにひどく時間がかかった。役者さんも決まって、稽古がもう始まりますよという頃にならないと、エンジンがかからない。当然、執筆と稽古が同時進行になる。稽古時間も少なくなり、脱稿そのものが初日に間に合わないという事態になる。それでも、新作の公演というのはとても楽しくて、演出家にも役者さんにもスタッフにも旧作や再演以上に苦労をかけてしまうが、初日の夜のワクワク感、ドキドキ感、そしてみんなと一つになった達成感は言葉に出来ない喜びだ。楽しいだけではない。私は新作を通じて、役者さんからも、スタッフからも多くの大事なことを教わってきた。芝居は誰か一人が頑張ってそれで出来るものではない。芝居に限らず、どんな仕事もそうだと思う。父の書いた戯曲を皆が誉めてくれる。確かに、父は物凄く努力して芝居を書いていた。だけど、台本がよければそれでいい芝居が出来るわけではない。父の書く台詞を大事に思ってくれるからこそ、ちゃんとお客様に届けたいと思ってくれるからこそ、役者さんには時間が必要になる。稽古場で稽古を重ねる時間が必要だった。暗記したらそれで舞台に立てるわけではない。役者さんばかりではない。演出家も装置家も照明プランナーも音響プランナーも、演出部といわれる裏方さん達にも、時間が必要なのだ。それが、稽古場での時間だった。どんなに台本が遅くなっても、寝る時間も削って台詞を体に入れなくてはならないときでも

「やれるところまでやりましょう」と言ってくれた人達。私の中に確かに残っている真実は、芝居というのは誰かが「中止します」とか「延期します」とか、宣言できるようなものではないということだった。

 制作は「どうしても初日を開けたい」と思う。切符は売れているのだから、中止になんかなったら大赤字だと焦る。もちろん制作だけではなく、関わった人達は全員「初日に開けたい」。開けるのが当たり前のことなのだから。だけど、最後の場面に大きな転換があったら、難解な歌が出てきたら、とても一日では稽古できないような内容だったら、稽古場で一度も通し稽古が出来なかったら……あらゆることを総合判断しての「初日」になる。「初日延期」になる。作る側だけのことではない。切符を買ってくださったお客様のことも考えなくてはならない。

 初日が延期になったり、公演が中止になったりしてしまったとき、それを知らずに劇場に来てしまうお客様への謝罪という仕事が、私が劇団に入ってからしばらく続いていた。これは、大変に厳しい役目だった。落胆し肩を落として

「仕方ないですよね…」と帰ってゆく方もいれば

「どういうことだ!!」と納得出来ず怒り出すお客様もいた。ただひたすら「申し訳ありません」と頭を下げることしか出来ない私は毎回落ち込んで逃げたくなった。そのうちに皆で相談し、劇団以外のプレイガイド等で切符を買われるお客様の連絡はあらかじめ伺っておき、万一のときに連絡が出来るようにしたり、初日から何日間かは前売り開始日になってもお客様に売らないようにしたり、公演がなくなったことを知らずに劇場に来てしまうお客様だけはでないようにと対策を重ねた。

何度も何度も、同じことを皆で話し合った。だから私は、どうあっても「初日を延期する」なんて勝手に一人で宣言するはずがない。なぜなら、私は、芝居が皆のものであることを知っているのだからと怒った。そんなことを私が宣言したと、だから許せない親子の縁を切ると言われるなんて、私の劇団での二四年間を否定されたも同じことだと父に歯向かった。

 また、父は父で「お金のこと、男関係のことはいい大人なんだから、これ以上の是非は問わないことにしてやる。だが、自分の作品を殺そうとしたことだけは許すわけにはいかない」と、顧問弁護士を通じて言ってきた。

 父が肺癌であることは、すでに私の耳にも入っていた。あのときの私は、父があんなにすぐに死んでしまうとまったく思っていなかった。完治することはないかもしれない。だが、何年間かはきっと癌と共存して生きていられるはずだと、何も聞かされていないにも関わらず、いや、何も聞かされていないからこそ、思い込んでいた。まだ、時間はあると、私は屈しないと意固地にもなっていた。最終的には、法的にはということだが、私の持ち株を父が買い取ることで退職金代わりにし、私はこまつ座を去るという形で終結した争いではあったが、父と気持ちのうえでの和解は出来ず、そのまま父は死んでしまった。


 そういう経緯があった、そんな確執があったとしても、父の顧問弁護士から受けた公正証書の説明に、私は納得出来なかった。

 私は、すぐ下の妹と二人で、父の妻に対して遺留分減殺請求を起こした。四月は終わり、五月に入っていた。