「パズル」PUZZLE 第11回「あのとき」  井上都


「劇団の代表を俺に代わって君がやってくれると助かるんだけどな」

 父が受話器の向こうでそう言った。

「うん…べつにいいよ」


 父と母の離婚が正式なものとなり、母が、相手の人のアパート(都内の小さなアパート)へと出て行った後、一緒に暮らしていた母方の祖父母も浅草橋にあったマンションへ居を移し、家には父と私とすぐ下の妹が残された。末っ子の妹は、この離婚の時点ではフランスへ留学中であった。

 話があっちこっちに飛んでしまっているので、ここで一度、日付を記すと、父と母が離婚したのは、昭和61年(1986)の6月のことだ。翌年、昭和62年・4月に父は再婚をしているので、父と私の冒頭の電話でのやりとりは、6月から翌年4月までの9ヶ月間のどこかで交わされたものということになる。自分でも、記憶がうろ覚えで、思い出し思い出ししながら書いていて頼りないこと甚だしい。

 この9ヶ月間に、実に様々なことがあった。

まず、すぐ下の妹が妊娠。フランスに留学していた末の妹が帰国。釜石で暮らしていた父方の祖母が上京し一緒に住むことになる。


 あのときこの祖母がらみで、いま思い返すとおかしくなる出来事があった。祖母が父と再婚させようと、自分によくしてくれていた週刊誌の記者を家に連れてきたことだ。

 彼女は、かいがいしく祖母の面倒をみてくれていた。祖母の話し相手になり、祖母に言われるままに買い物に行き、父や私達の食事の面倒までみてくれた。離婚直後は失意のどん底にいた父であったが、いつの頃からか、昭和62年の正月には、すでに再婚相手との逢引きで家を留守にしていたから、祖母が同居するようになったあの頃は、はっきり言って年甲斐もなく、恋愛中だった。最初のうちは祖母の面倒をみてくれるその記者に感謝している様子であったが、食事のたびに祖母から執拗な「再婚しなさい」攻撃が激しくなるにつれ、露骨に冷たい態度を表すようになっていた。つまりは、書斎から出て来なくなったのだ。

「ごはんだよ」と呼びに行くと、顔をしかめて

「いやなんだよ、あの人と一緒のテーブルで飯食うの。わるいけど、ここに運んでくれ」というような具合だ。

 それでおとなしく諦めるような祖母ではない。今度は自分から書斎に出向き、父に説教を始めた。

「早くいい人を見つけないと、そのうちまたあの人が戻って来てしまうよ」

 あの人とは、母のことだ。

「おふくろ、いい加減にしてくれよ。俺にだって選ぶ権利くらいあるだろ」

 ある日を境に、ぱたりとその記者は現れなくなった。話好きの祖母は何も言わない。もともと私も好意を抱いていたわけではなかったし気にもしていなかったが、

「みーくん、みーくん、ちょっとこれ見てみな」

 父が領収書の束を持って来た。

「なにそれ?」

「まったく困ったもんだよ。俺はハッキリ断ったんだ。妙だと思ってたんだよ、最初から。俺に結婚する気がないとわかるやいなや、いままでお母様に頼まれて買わされたものの代金を払えって、これを送りつけてきやがった。親切でやってくれてたわけじゃなかったんだよ。後釜におさまる作戦だったんだよ。冗談じゃないよ」とひどくご立腹。

「ええ?? そうだったんだ?」

 毎晩のように小柄な祖母が父の書斎に入っていく姿を目にしていた私は、その様子を思い出してなんともおかしくなった。チョコチョコチョコチョコと狭い歩幅でゆっくり歩く祖母の姿と、ああ、またかというように困った顔をして祖母を迎えていた父の姿。

 祖母はずいぶん以前から、父と暮らしたいと願っていたらしい。父が母の両親と暮らしていることは、この祖母にしたら自分の居場所を奪われてしまったくらいの感情でいたのかもわからない。おかしな話。どうして皆で仲良く暮らすことは難しいことだったのだろう。祖母だけではなく、父も母も、また母方の祖父母も、長いことそれぞれが我慢して暮らしていたと、そんなふうに後で語ることが多かったが、いま私も、当時の大人の事情がわかるような年齢になったけれど、何を気にしあっていたのだろう…と、とても不思議。

 どうせゴチャゴチャだった家なのだから、いつも誰かしらが一緒にいて年がら年中人の出入りが尽きなくて、いっそのこと、みんなで暮らしてしまえばよかったのに。


 私自身にとって一番大きかったのは、父に代わって劇団の代表になったことだろう。ことだろうと他人事のように思い返してしまうのは、あのとき私はほんとうになんにも考えていなかったからだ。本当になんにも。ただ、あまりに父が忙しそうにしていたから、可哀相だなあと思っていた。ただそれだけだった。

「君が代わりにやってくれたら助かる」の「助かる」という言葉だけで私は引き受けた。

「パパが助かるなら、べつにいいよ」と。