鵜の目鷹の目ココロの目 第43回

「アフリカの夢」実現(?) 志村史夫

 

 先月末、日本が主導する「アフリカ開発会議(TICAD)」がケニアの首都ナイロビで開催され、「経済の構造改革」「強靭な保健システム強化」「社会安定化の促進」の3分野を優先的に取り組むという「ナイロビ宣言」が採択された。このために、日本は今後3年間、官民で総額3兆円を投じるらしい。安倍首相は、記者会見の席上、「アフリカの夢を実現させていく」と強調したという。

 私は、この記事を新聞で読んで、6年前にケニア・サファリに行った時のことを思い出した。

アンボセリに滞在したある日の午後、マサイ族の部落を訪ねたのであるが、幸い、酋長の息子や“ドクター”らマサイ部落の「指導者」は英語を話せるので、私は彼らとさまざまなことを語り合ったのである。

 もちろん、「文明人」から彼らの衣食住を見れば、「不便」で「貧しい」。私たちが何気なく“質素な暮らし”という言葉を使うが、マサイの人たちの暮らしはとても“質素”というようなレベルではない。しかし、私がここで言う「不便さ」も「貧しさ」も、物質・機械文明にどっぷり浸かった「文明人」の“たわごと”のようにも思える。万が一、私たちが彼らの「不便さ」と「貧しさ」に同情するようなことがあれば、それは僭越、不遜ではないか。事実、「アフリカは貧困」という先入観に基づき「アフリカの貧困撲滅を! アフリカに支援と開発を! アフリカに教育を!」などと叫んでアフリカに乗り込むNGOや「協力隊」や「支援者」が少なくないが、「先進国」の人間が、、彼らの国を「後進国」あるいは「発展途上国」と決めつけ、彼らを「貧困に喘ぐ人々」と決めつけるのはエゴ以外の何ものでもないように思える。彼らは、「先進国」の人間が考えるような「発展」を必ずしも望んでいるわけではなく、したがって、必ずしも「国」でも「国」でもないのである。

 私たちの7日間のサファリ中ずっと一緒だったケニア人のドライバー兼ガイドが休憩時間にポツリと私に話した「自分の爺さんがいつも言っていた。昔は、ケニアには道徳や礼儀を重んじる人ばかりだったが、いまはすっかり変わってしまった。静かだった生活が、騒々しくなった、って」という言葉がグサリと私の胸に刺さった。 

アフリカ諸国の中では「先進国」の資本、企業、「開発支援」がいち早くケニアに流れ込み、その結果、新しい物資、生活様式、宗教が洪水のごとく押し寄せたのである。私たちにとっても耳が痛い話で、ケニア人のドライバーも小さな声で言ってくれたのだが、その“洪水”の中には世界からの観光客も含まれる。それらの“洪水”が一部のケニア人に多大な「利益」をもたらしたのは事実であろうが、多くのケニア人にとっては、いずれも“異物”だったのである。異物が大量に流れ込み、日々の生活に急激な変化がもたらされれば、当然のことながら、社会はにわかに混乱し、人々の心も、価値観規準も道徳基盤も揺らがざるを得ない。

 アフリカへの「支援」が作る「美談」も「自己満足の押し付け」も考えものなのである。

彼らは彼らの長年のやり方で、彼らなりにやって行けばいいのだ。私が垣間見たマサイ部落の男たちも女たちも子どもたちも、みんな暗くて「不幸」そうだったかと言えば、決してそのようには見えなかった。私の目に、彼らは生き生きと映った。掘建て小屋のような彼らの学校で見た子どもたちの大きな声と輝く目が忘れられない。

たとえ、「先進国」の人間には粗末で、貧乏で、非効率的で、哀れに見えるようなことであっても、彼らはそれなりに、自分たちのペースで納得しながらやって来たのである。「先進国」はそのための経済的、技術的、人的支援をすべきであって、「先進国」の勝手な価値観を押し付けるべきではないと思う。もしも、「先進国」の人間の「協力」と「支援」の根底に、彼ら「後進国」、「発展途上国」の人間をダシにした「金儲け」の意図があるとすれば、それはもはや「独善」などではなく、明らかな犯罪である。

 私は、ケニア人ドライバーの話を聞き、「文明はわれわれの家を改善してきたが、その中に住むべき人間の方は同じ程度に改善しておかなかった」(ソーロー『森の生活』)という言葉を思い出したが、「文明人」が「非文明人」にしていることは、当の「非文明人」にとっては「改悪」だったような気がしてならない。

私は、マサイの人々ら「非文明人」の生きかたを見聞するにつけ「人間にとって本当の贅沢とは何なのだろうか」と考えてしまうのである。