鵜の目鷹の目ココロの目 第41回

 天皇陛下の「お気持ち」に深く感銘 志村史夫

 

 8月8日の天皇陛下の「お気持ち」を拝聴し、私は深く感銘を受け、感涙を禁じえなかった。

 私は10年余のアメリカ生活を通じ、日本を「外」から眺める機会に恵まれたが、日本という国を世界の様々な国と総合的に比べ、日本人に生まれてほんとうによかったなあ、と何度も実感することがあった。私にそのように思わせる国体の根幹には世界に類がない伝統的天皇制があった。

 長い歴史を持つ日本ではあるが、史実として古来日本の「師匠」であったシナや朝鮮と比べると、日本の歴史、具体的にいえば、日本の伝統・文化はかなり単純なものであると私は思っている。この「単純」という言葉は誤解を招く恐れがあるので、「日本の伝統・文化は一本の太い導管に導かれている」といい直してもよい。念のために書き添えるが、それらの「日本の伝統・文化」は決して「歴史」の中だけにあるのではなく、現代のわれわれ日本人の生活の中の「習慣」なのである。

 その“一本の太い導管“とはなにか。

 日本の有史以来を通観し、私が思う“一本の太い導管”とは「万世一系」の「天皇」あるいは「天皇制」である。この天皇が、白河、後白河天皇らの例外はあるものの、政治の実権を握る権力者ではなく、日本国民が「象徴」として崇める権威者であったことも大きな特徴である。

 話が前後するが、歴史家の一般的見解によれば、「日本」国が成立するのも、「天皇」号が成立するのも七世紀末であり、「日本」と「天皇」はいわばセットになって定まったのである。したがって、「日本」および「日本の伝統・文化」は「天皇」抜きには語れないし、「天皇制」は1300年以上にわたる「日本」の基盤である。

私がここで重視したいのは、日本の歴史において6世紀以降、「王朝交代」したことがなく、少なくとも1500年もの間「万世一系」が存続しているという事実である。世界には昔から現在まで君主国家がいくつもあるが、日本のような「万世一系」の国はどこにもない。

 現在の日本が、世界でも有数の最も高度に発達した資本主義国であるにもかかわらず、そこに「原始宗教」といい得るような、さまざまな「神の儀式」が共存し、それを多くの日本人が自然に受け入れているばかりでなく、日々の生活の中でもさまざまな形で実践してもいる。また、まだ記憶に新しい伊勢神宮の式年遷宮では内容的にも金額的にも想像を絶するスケールで、1300年間、愚直なまでに伝統が継続され続けている。このような「神事」が、そのスケールに大小の違いはあるものの全国津津浦浦、どこででも行なわれているのである。

 これらの事実は、世界の「常識」からみれば決して理解しやすいことではない。世界史を通観すればすぐにわかることであるが、多くの国では政変が起こるたびに、政治、経済体制はもとより、文化までが激変するのが“常”である。この日本でも有史以来、政変は何度となく起こっているが、「日本」、「日本人」が根本から変わることはなかった。不幸にも、現代は、いろいろな屁理屈をつけながらも本質において「経済」、「金」が中心になって動いているのであるが、日本が世界に、世界の人たちに誇るべきことは、経済、生産性、モノ作りなど即物的な物事ではなく、まさに、このような精神性だと私は思う。少なくとも教養と見識がある人たちからは尊敬されるに違いない。

 日本の「天皇制」の意味については、このように理解し、かなりわかっていたつもりでいた私であるが、今回の天皇陛下の「お気持ち」を拝聴し、実際の「象徴天皇」なるものの神々しさとともに、現実的厳しさには思い至らなかった点が多々あることに気づかされた。天皇陛下が「象徴天皇」として持たれている御公務は、とりわけ御高齢の天皇陛下が果たされている御公務は国民の想像を絶するほど厳しいものであることを知らされた。改めて、日本の長き伝統である「天皇制」を「象徴天皇」として完璧なまでに守り続けられている天皇陛下に平身低頭する思いである。

 現行憲法の制約から、直接的表現は避けられたものの、天皇陛下の「お気持ち」の真意が「生前退位」にあることは明らかである。ほとんどの日本国民は、天皇陛下には、お気持ち通り、生前退位していただきたいと思ったことであろう。私も例外ではない。

 しかし、一方で、「象徴」としての「御公務」よりも、同じ天皇陛下がいつまでもいらっしゃるという「御存在」の継続自体が日本国民の精神的な統合の象徴として重要な意味を持つのではないか、という気持ちも否めないのである。

いずれにせよ、今回の天皇陛下の「お気持ち」に、私は改めて「日本人に生まれてほんとうによかったなあ、幸せだなあ」という思いを強くさせていただいた。