鵜の目鷹の目ココロの目 第39回

 再び「一票の格差」 志村史夫

 

 18歳以上の日本人に選挙権が与えられた初めての国政選挙である参議院議員選挙が行なわれた。今回の選挙の事前の選挙運動内容と選挙結果が従来の「20歳以上の日本人」に選挙権が与えられた選挙と比べて顕著な差があったのかどうか、私は知らない。

私は、3月4日の本欄に「一票の格差」を書いた。

主旨は、今回の有権者年齢の引き下げによって、「一票の格差」は一段と広がることになる、ということである。

要するに、一年間に何億円も税金を払っている人の一票と、親のすねかじりのような高校生、大学生の一票がというのは理不尽も甚だしいのではないか、ということである。

しつこいようだが、『憲法』に明記されているように、納税はの一つである。選挙権が一つの権利だとすれば、そして、権利と義務が一対のものだとすれば(私はそう信じている)、義務を果たしていない者に権利が与えられるのは理不尽ではないのか。

このような「一票の格差」、「納税の義務と選挙権」についてマスコミで論じられたことがあるのだろうか。私は寡聞にして知らない。まことに不思議なことである。

もちろん「民主主義」下の日本において、相手にされないのは百も承知でいうのであるが、私は以前から、納税額に応じて選挙権の「重み」を増減すべきであると考えている。国家に対し、納税者は納税額に応じた貢献(それが一面的なものであることはいうまでもないが)をしているのである。

つまり、株式会社における「株主平等の原則」のような原則が適用されるべきなのではないか。この“平等”の意味を誤解してはいけない。大株主も小株主も“みんな平等”という意味ではない。持株数に応じた平等である。大株主が持つ一株も小株主が持つ一株も、平等の一株であるが(それだからこそ)、株主権の大きさは持株数に比例するのである。私は、これが本当の“平等”というものだと思う。“みんな同じ”という「平等」は不平等である。

最近、「選挙権」に限らず、さまざまな分野で、義務を果たさず権利のみを主張する輩が多すぎるのではないか。このようなことが許されるのも、日本の「民主主義」の特徴の一つなのだろうか。