宗教学者の父が娘に語る宗教のはなし 第52回    島田裕巳

 

 そうなんだよ。君の言うとおりだ。

 けっきょく、エピファニーというのは通過儀礼に通じている。

 どんなものでもいい、エピファニーと言えるような現象に遭遇したとき、それを経験した人間は変わっていく。

 最初に話をしたように、空港にほとんど裸であらわれたレディー・ガガに遭遇したりすれば、それはたんに忘れられない出来事ということにはとどまらなくて、ものごとに対する見方が変わるかもしれない。

 もちろん、そんなことばかげていると考えて、無視してしまう人だっているだろうが、それに激しい衝撃を受ける人間だっているわけだ。

 体験は人間を変えていく。一度経験すると、それまでとは同じようには生きられなくなる。

 だから、エピファニーが通過儀礼になるわけだ。

 通過儀礼は、成人式もそうだけれど、儀式として行われるものもある。結婚式もそうだし、葬式もそうだ。

 そうした通過儀礼には一定の形式があって、それに則って儀式は進んでいく。

 成人式の場合、それを経験することで社会的に大人として認められたということになるわけだけれど、それに列席したからといって何かが変わるわけじゃない。

 それよりも、それまでできなかったことができるようになったりした方が、自分が変わったという自覚をもつことになる。

 覚えているかな。

 あれは、君が中学校の一年生だったときだ。そのとき何の用事で出かけたのか、もうはっきりとは覚えていないけれど、矯正歯科に行くのについていったときだろうか。

 診療が終わって、新宿の町だから、お茶でもしていくかということになった。それで街角のカフェに入ったんだけれど、君は何を注文したらいいのか、随分と迷っていたんじゃなかったっけ。

 それで結局、チョコレートの入ったコーヒーか何かを注文した。そして、君はそれを飲んで、「おいしい」と言ったわけだ。

 それまで、君はコーヒーなんて飲んだことがなかったんじゃないかな。たとえ、飲んだことがあっても、おいしいとは思わなかったはずだ。

 ところが、そのときはコーヒーがおいしいと感じた。もちろん、チョコレートも入っていて、随分と甘いコーヒーだったけれど、コーヒーが入っていることは間違いない。

 それから、家でもコーヒーを飲むようになった。君がその時、どういった感じになったか、本人ではないので分からないけれど、コーヒーをおいしいと言っている君を見て、僕は、君が少し大人になったような気がした。

 人間というのは、そうやって大人になっていくものだと、改めて感じたりもした。

 それも、そうたいした出来事ではないのかもしれないけれど、一種の通過儀礼だ。子どもから大人へと一歩進んだわけだからね。そのときの君には、コーヒーがまさにエピファニーだったわけだよ。

 だから、エピファニーというのは、それほど大事ではなくて、日常のなかの何気ない場面でも遭遇することがあるものなんだ。

 そうした経験をどれだけできるかってことが、その後の人生を進んでいく上ではとても重要なことなんではないだろうか。

 何ごとも経験なんだよ。

 たとえ、そのときこれは悪い体験で、できるなら避けたかったというようなことがあったとしても、それはそのときのことで、後になると感じ方や評価が変わってきたりする。

 たとえ悪い体験でも、それは、人生を変えていくことに結びついていったりもするし、そうでもしないと、その体験を消化できない。

 それに、時間が経ってみると、その体験を通していやな気分になっていたのも、もう忘れてしまい、物事を醒めた目で見ることができるようにもなっていく。

 そうなると、いやな思いも大部薄れてしまうし、案外それがあったから、その後にいいことがあったんだということに気づいたりもする。

 だから、体験というのは、つまりはエピファニーということだけれど、無駄になるということがない。無駄なことにしてしまうのはもったいないんだよ。

 さあ、ちょっとお説教くさくなってきたところで、これで話は終わりにしようか。

 もう直、ほんものの君に会えるわけだから、それを楽しみにして、僕の宗教についての話はこれで終わりだ。